柊馬

2019年2月27日 (水)

川柳性

順序から言えば、川柳が川柳であるところの川柳性は、前句附けから始まった。

まあ、それの緩みが少々あっても発展的迂回には思わぬ愉しみもあるだろうからいいのだが、気が抜けただけの句を読まされる腹立たしさが鏡となって我が身の懶惰を写す(なんと大袈裟な)。

先の例会で題詠に働く川柳性の確認をしたのは、小人数限定の当会でのやり安さを利してのことで、遠景に前句附、やや近景に私川柳が在った。

近景での川柳界という大枠の中で、単純で強固な「川柳に私の思いを書きましょう」という近代的な意識の大流行期があって、其処で「私の思い」の表象に川柳性が大いに働いて、これが書店を賑わすまでに至ったのだから、趣味のレベルからいえばまあ、川柳性は大したモノだったのだが、表象レベルを一所で止めてしまう微熱の浸潤性が在って、これを対象化して考えるちからが川柳人に無かったとも云える。

昨日、ネットで読んだ俳句に

  歯医者待つ二二六の晴れた空    野口 裕

が在った。

川柳性から言えば、絶妙の飛び具合!!

2019年1月16日 (水)

思い出

 梅原猛さんが亡くなった。

 もう、半世紀以上も前のことだが、NHKで、仏像についての話を続けられたのを見て、ド素人のチンピらにも判り易い話法が嬉しかった。

川柳の先輩の、所ゆきらさんが仏像に詳しくて、新興川柳系の洒脱な表象と気さくさに習うことが多かったこともあって、「日常性の中に在る仏像」という親しみ易さが梅原さんの放送で益々近くなった感が在った。

 感が在ったというのは、見るべき放送を見て、仏像の写真集を手にして市内の寺を僅か数件、見に回って、梅原さんの親しみ易さとは全く違う、遠い遠い、距離の向こうの薄暗い仏壇に、いわばさっぱり有り難くも親しくもない「それ」が、おわしますのだ、というケチな料簡に嫌気が差したのだ。そこに、梅原さんの云われた仏像はない、と―――だから余計に、梅原猛という存在感が濃厚になった。

 貴重な日曜日の時間を、ジャズ喫茶で過すことの多いチンピラの感覚に、、其処で梅原さんの著作を読むとカッコいいのだという、唯我独尊が発生した。『隠された十字架』を愉しみ、『水底の歌―柿本人麻呂論論』などを読んだ。クリフォード・ブラウンを好む常連が居たのだろう、マックス・ローチのドラムに煽られるように上昇するアドリブの、ときに豪胆―-。別の常連にニーナ・シモン好みが居て「ワークソング」など。けっこう、梅原さんに在る大衆性とジャズは好く合っているいるなどとイイキなものものだった。

 そのころ、小さなビルの地下の、さらにさらに小さい茶店で、梅原さんを囲む集いが在って、ド素人が20人ほどで満席だったか、催しの報が小さかったのか、もったいない、しかし充実した時間が在った。「ぜひ見たい狂言が、いま(市内の何処で)やっていてねえ」と、ド素人の小人数の集まりを優先されたことが忘れられないが、その後、「スーパー狂言」や「スーパー能」に向われるなどが在った。

2018年11月21日 (水)

収穫

   栂ノ尾を過ぎた辺りから夫婦      せつこ

11月例会で佳吟を得た。

地名を用いる書き方、あるいは地名を一句にする書き方で直ぐに作者が判るのだが、そこで小人数限定の会特徴のワイワイガヤガヤと中学生のように、そして充分に空気を弁えたメンバーの持論とか批評と云うより、感想が交換される。

この句の作者は一句に地名を用いることで、実生活での神経の尖りを緩和したり―――しかし、たしかに燃えている火の色の揺らぎの継続感を書くなどが在って、結果、煩悶の殘る書き方となることが多かった。

只今現在の社会にまみれざるを得ない川柳では、作者の自己剔抉を測り見る読みなど古いと感じ合う図式が在って、自ら、空気を薄くさせ合っている。だが、日常性の床下にはなにもかも統一的に均してしまう現実への忌避感が在って、その個的な煩悶をひととき呑み込んだ位置からの自己客観が「過ぎた辺りから」の一句となった。一句に時間と空間が巧く混ざり合った―――そして読み過されやすい佳作だ。

2018年11月 1日 (木)

日本刀のブームだと聞く。今朝もテレビで識者たちが話していたが、ブームはゲームからのことで、女性の関心が高いとか。

子供の頃に少年講談に夢中で中学生になって大人向けの講談全集に。

貧窮生活で貸本屋へも行き辛い有り様だったが、全集を卒業、むろん学業はだめなチンピラ状態だったがマンガには距離をとっていた。

もちろん五郎正宗などという刀工の苦労話とか、豪傑達の出で立や差料などを立て板に水の勢いで述べ立てるラジオの連続講談に親しんだが、借金を重ねて逃げた父の何度目かの無茶苦茶で、貸本屋もラジオもない暮らしぶりで辛うじて中卒。

些かの給料を得て、孤独な映画館通いなどと共に、デパートの刀剣展を数度。当時のそれは10代のチンピラが観覧するなどは殆ど皆無だったので場違いの空気が肌を撫でたが、厚かましさは借金上手の父譲りといえばいいか、かの有名な「包丁正宗」を見て率直に大感激。此れを持って自身に刀剣趣味を卒業させたが、折から小説『眠狂四郎』の大ブーム。そこにも正宗であったかが?振るわれて、愛読。一方でジョン・スタージェスの決闘三部作などのピストルによるスペクタルに傾倒。

なにやら10代の青くてふわふわした孤独感と現在の日本刀ブームの重なり具合が、懐かしいと云うより同質性、根っこの無さを感じさせてチョット苦い。

2018年9月17日 (月)

あっちも見て

ひでおさんの書かれた記事に在る『口傳』のⅢを頂いて、この数日はお礼状に専念、まあ、私のことだから言いたいことを言って、大先輩が苦笑されることになるのだが、この辺りを次回かその次の当会の教材にして、会の皆さんと話し合う気で居ります。

同様に桐子さんの「業務連絡」の掲示のとおりに、明日の会が進めば、と思いつつ、その副教材を急遽、「柊馬の川柳フェスタ」に書きましたので、つづきの会の皆さんへの―――ややこしい業務連絡です。

あっちも見て、って、実は目立たないように地味にと思って居るブログですが。なにしろこれ以上何かをすると、物忘れと共に、ハチャメチャになるので、お手柔らかに、もじもじ・・・。

2018年8月 7日 (火)

当麻曼荼羅

せつ子さん、いいものを見てこられた。

おそらく、その中の一つを、半世紀以上も前に見たと思うのだが、ボケて曖昧。

当麻寺へ行って織物を見たのだけれど、その前に、能「当麻」(小林秀雄)を読んでいて―――其処で小林が、能面と子猫の死骸という、当方の感覚では川柳的な飛躍を書いていたのが刺激的だったからだと―――我が生臭さが思い出される。

当方とイタシマシテハ、句会で、飛躍を書けば認められると実感していたころで、チンピラの乱暴、此処に尽きる無茶苦茶な時節だった。イヤハヤ。

2018年7月14日 (土)

巡行当日

半ボケ状態のそれがしにも、ガキの日があり青年期もあって、ガキの頃に居たのが祇園祭の後祭りの区域。青年期にはカメラをかざして御池通りのど真ん中で、巡行の真正面に飛び出てシャターを切り、見物席を横切って、馴染みのジャズ喫茶や音のいい店で休憩。自分で自分を認めるしかないチンピラだった。

近頃では、連休と祭りが重なって、かつて走り回った辻々が身動きできない状態で、ジジイなど撥ね飛ばされる賑わい―――他府県から来る柳友が気になっても、やけくそで、西瓜など齧るのが祇園祭。

17日の巡行にぶつかると、四条、室町、烏丸、東の洞院、高倉、堺町ーー綾の小路、錦、蛸薬師、六角辺りは、下手をすると身動き不能、下手に地下道に潜るとトイレにも行けない可能性がある。

来京の柳友諸氏、なるべく早い目の行動、身ごなしを――なさいませ。(なんとヤサシイ柊馬、と我ながら感心)

2018年6月14日 (木)

一句はいつまで在る?

すでに半世紀を過ぎた事績を二つ、沢山のメモ、言葉にして、貯め込んでいる。無論、川柳に関わることだが、言葉にすることで見えなかった関係性や由来や事由が像になる―――喜びが在る。

其処で度々立ち止まってしまうのが、川柳一句のライフワーク、その短さだ。

メモを読み返すと、現代川柳で、それも秀でた一句の、いわば耐用年数が4年程に感じられる。それ以後になってしまうと、川柳を書き、読み合って居るところでも、なにやら、諺化している。

社会的にも通じる古川柳のそれなど、諺として言われているのが常だ。此の辺りから見れば、川柳の句会吟は、入選して、発表誌に載って、終り。川柳誌に載せる創作などは殆ど無反応、膾炙されるなどが無い。

そしてこの命脈の短さが、いわば作句の渦中に(無意識であれ)関わっていることを思えば、ほんの少し、自己と、川柳性の関わり合いが対象化されて感得される―――やっぱ、川柳って、短命だよねえとの慨嘆、或いは再確認になる。逆にいえば、自分の中に、自分と川柳性との、かなり淋しい(あるいは愉しい)関わり合いの、素の状態が立ち上がる。

2018年5月 2日 (水)

「川柳サイド」3

「凛20周年記念のつどい」の会場で、小池正博さんから「川柳サイド」3号を頂いた。

さっそく、その夜に鑑賞。

  アネモネは腕立て伏せを知っている      清水かおり

、 兄たちよ 冷厳な影になるのね         

  挙手をして空中階段駆けおりる

  正午から逸れた大人になっている

  映画「あなたは決して逃げられない」     柳本々々

  たえずはちみつをくちにふくむじょうたい

  縞馬と話す未来が癒えるまで話す

  まどぎわでおじぎするときするめまい

  「ほろびるの?」鯨から電話が掛かってくる

  よく振ってそのままにするコーラの壜

  ティンパニの皮になるんだよ僕ら        榊陽子

  ベジタリアンの父と私が妊娠する

  唐揚げをそっと世界と呼びなおす

  その人は自傷の森の研究者           小池正博

  絶叫の前にポンチョを着ておこう

  シャンデリア支える手のようなもの  

一気に読んで、タワリシチと叫び(うそ)涙し(うそ)、此処に現代川柳在りと独語し、整腸剤を呑んで「早寝早起き」と称えて就寝した。

2018年3月26日 (月)

感吟

  どこからか吹く風 二ん月の満月    前田芙巳代

                     「凛」No、73  2018-春号

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