桐子

2020年5月15日 (金)

アクリルのむこう

自粛生活が長引くほどに、ほんとうにしたいことが絞られてきた。
緊急事態宣言が解除されたら、まず行きたいのは図書館、本屋さん。
読みたいだけなら、ネット通販で買えばすむ。
書架の本に囲まれるだけで、気持ちが落ち着く。
背表紙に惹かれ、手にとって、一冊と出会う……。
人付き合いの下手な私なりの、人とのつながり方だったのだと思う。
それから、次はパン屋さん。
徒歩圏内には好みのパン屋さんがなくて、おいしいパンではじまる朝が恋しい。
私にとっての不要不急は、本とパンだった。

川柳?
時間も空間もぽかんとあいて、ことばが遠くなっている。
遠巻きにしたことばから、あたらしい発見があればいいのだけれど……。
透明なさやの中の豆のように、まわりを見つめ直している。

  どちらからともなくうたう雨と豆  桐子

 

2020年3月 3日 (火)

ことば

昨年から、歌人の牛隆祐さん、詩人の櫻井周太さんと、「フクロウ会議」というユニットで活動している。
昨夏に「蕪のなかの夜に」という本を出し、先月ことばとアートのイベント「アルデバランを踏まないように」を開催をした。
森をイメージした展示。朗読、歌会、トーク、ダンスパフォーマンス(漂流詩)…ことばをたのしんだ4日間だった。

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私は、ハーバリウム にヒントを得て、試験管に川柳を浮かべて木に吊り下げた。ことばの木だ。水に浮かんだ文字は、果実のシミやタネのようでもあり、葉脈のようでもあり、気配で何かを伝えていた。すれば、葉脈も、タネも、果実も、読めるのではないか?

 

 

 

 

コロナウィルスの感染拡大で、なるべく家でおとなしくしているように言われている。句会も中止だ。今日は、家のなかのものを読んでみよう。そういえば、昨日おじいちゃんがくれた人参。…なにやらもの言いたげである。Img_2187

 

 

2019年12月30日 (月)

進化する笑い

今年さいごの句会から帰宅すると、ちょうど漫才グランプリ「M1」が始まるところだった。
よく知らないコンビも多くて、あまり期待していなかったのだが、笑った、笑った。
笑いながら、今年の笑いは何か違うぞ…と思っていたら、ツッコミが違う。
これまでのツッコミは、「なんでやねん」式に相手を強く否定、あるいは罵倒、はたまたどついて笑いをとったが、今年のツッコミは、相手を全肯定する、どこまでも寄り添うといったスタイルが見られた。
笑わせ方も、相手の容姿やジェンダーいじりが減って、人を傷つけない笑いへシフトしつつある。

川柳のお家芸とも言える「笑い」。ここにもまだまだ可能性はありそうだ。



  で、としか言ってくれない京都タワー  桐子

 

2019年12月13日 (金)

「座る祥文 立つ祥文」

筒井祥文さんの遺句集が、近しい方々の手で編まれた。
祥文さんらしい、シンプルな装幀。表紙には、句会で見かけた考える祥文さんの似顔絵。裏表紙には、おむすびみたいな祥文さんの背中が、いかにもシャイな祥文さんらしい。すみずみにまで、大勢の人のこころが込もった句集だと思う。

(川柳や…)と思いながら三度読み返し、読むたびに付箋が増えた。さりげなさが、極めた芸のようでもある。

 

   老人が違う光の中にいる

   ころんと転がる一瓶の夜景

   水垢を水で洗えば佐渡おけさ

   音の出るものを天神さんで買う

   よろこびのびの字を猫が踏んでいる

   光年というヨーヨーの紐の丈

   鳥の声 水は力を抜いている

   あり余る時間が亀を亀にした

   正しいと思うところに鼻をおく

   人としてキリンの下を通ります

   伝説の幅を計れば二寸五分

   仏壇の奥は楽屋になっている

   二周半ちょっとで奈良漬けの角度

   人間を三人埋めて余る土

   何となく疲れて海に腰かける

 

2019年10月29日 (火)

川柳と川柳性

10月のつづきの会で、「川柳性」を意識した作句、選句をと言われた。
川柳が川柳であるところの“川柳らしさ”とは?、ずっしり抱えて帰った。

10月のねじまき句会では、雑詠に出された句について「これは川柳ですか?」という疑問が投げかけられた。
川柳かどうかと、おもしろいかおもしろくないかは別問題だ。無点だったことで、出席者には作者の意図が伝わらなかったことは言えるが、川柳かどうかについては意見が出なかった。川柳観の問われる難問だった。

川柳は俳句のように約束事もなく、自由に書いていいと言われる。ネットを中心に、あたらしい川柳も日々目にするようになってきた。
なぜ川柳で表現するのか、川柳で何を書きたいのか、川柳をどう評価するのか、問い返すときかもしれない。

   転居不不先不不不明鳩の足  桐子

   

 

2019年9月12日 (木)

見ること

パソコンのグラフィックソフトで、作品や印刷原稿を作成するときに、いくつかの画像や文字をレイヤーと呼ぶ「層」に分けて重ねてゆく。
アニメーションのセル画も同様の階層構造で、層の多いほど奥行きや立体感が表現される。最終的には見えないものまで丁寧に描きこむことで、実写とは違ったリアリティを生み出したのがジブリだ。

写生句にもこのレイヤーを感じさせる句があって、書かれているものの背後や、切り取られた風景の外側までイメージの広がることがある。見たけれど隠したのか、まったく見ていないのか、文字表現でも受け手に伝わってしまう。

ハリガネ画の升田さんは、ハリガネで仏画から写仏をする。平面から平面に線を起こすのかと思ったら、仏画を一度、頭の中で立体にしてハリガネの線画にするのだそうだ。そうしないと、像(かたち)にならないとおっしゃった。

平面化してゆくデジタル社会の中で、奥行きを見ることが減ってきている。ただものを見ることに留まらず、すべてのものと自分の関係性まで曖昧になりそうでこわいことだと思う。

    

2019年8月 8日 (木)

眼力

Twitterにドローンで撮影した、花火映像が流れてきた。地上から見上げるのとは違って、目の前でひらく花火。混雑した会場で見るより、自宅で画像を眺める方がずっときれいと添えられていた。そうだろうか。花火の音、煙、火薬の匂い。たまに、筆が滑ったようにはみ出す花びら。迷子のアナウンス。「すごい、すごい」を連発する人。花火の合間の沈黙と風。あるいは、ベランダから見る音の小さな花火。道ゆく人の下駄の音。終わった直後の空。花火を見るということは、花火だけではないからこそ、私だけの今年の花火を感じることができる。

墨作二郎さん主宰の吟行会「散歩会」がなくなって、2年半が経った。月に1度、1時間半から2時間、見ることに集中して書く時間がなくなってしまった。そして、知らず知らずのうちに、川柳の目が弱ってきているように思う。

柳宗悦は「茶道を想う」の最初に、見ることを書いている。「彼らは見たのである。何事よりもまず見たのである。見得たのである。凡ての不思議はこの泉から湧き出る。誰だとて物を見てはいる。だが凡ての者は同じようには見ない。それ故同じ物を見ていない。ここで見方に深きものと浅きものが生れ、見られる物も正しき物と誤れる物とに分れる。見ても見誤れば見ないにも等しい。誰も物を見るとはいう。だが、真に物を見得る者がどれだけあろうか…(中略)…茶人は眼力の茶人である」。実に「見る」を20回も繰り返して、見ることを説いていた。「柳宗悦 茶道論集」

   
   増水の川ひとしきり見て帰る  桐子

 

2019年7月 7日 (日)

笑い

夏井いつき先生で人気の「プレバト」俳句を観た。
今回のお題は「梅雨明けの銀座」。最下位で凡人査定された「夏服に腹出る四十となりにけり」の句について、才能あり査定された芸人さんが、「サラリーマン川柳で落選した句みたい」と評し、夏井先生は「それほどひどくないです」とおっしゃった。やはり「腹出る」という笑い要素、俗っぽさが、川柳イメージなのだろう。少し前の回では、夏井先生が「意味でおもしろがらせると川柳になりますから…」とも言われていた。

ほんとうのおかしみは、笑いにかなしみや怒り、さみしさが混ざっている。それが、あとを引く。そういう川柳も、もっと読まれるといいなと思った。

  わけあってバナナの皮を持ち歩く  楢崎進弘

  電柱は精神力で立っている  丸山進

  お手洗い借りるこの世の真ん中で  広瀬ちえみ

  虫に刺されたとこを人は見せたがる  金築雨学

  妻一度盗られ自転車二度盗らる  渡辺隆夫
  

2019年6月10日 (月)

ことばで…

劇団維新派の松本雄吉さんのことば、「表現じゃない、行為なんや」がずっと引っかかっている。
維新派の舞台表現は、白塗りした役者が不自然な台詞と動きで演じる虚構のかたまりのようなもの。それが、表現ではなく、行為なんだと。行為になるまで、表現を身体にとり入れたということか……。

川柳を「作る」という人もいるくらいで、川柳は書くより作るに近い。書きながら、どこかできてしまったものにならないかなあと考える。今の気分や、天気、食べたもの、見たもの、触れたものと、今のことば。偶然性、一回性ということで言うと吟行があるが、これまた苦手。作ることを、なかなか越えられない……。

  なめらかに目鼻失う舟の人  桐子(姫路吟行)

 

2019年5月13日 (月)

AI川柳

宗教学者、山折哲夫さんの『AIは「こころ」と共存できるか』の講演を聴いた。

というのも、川柳教室の生徒さんから「これからは、川柳も俳句もAIが作るんじゃないですか」と言われ、ずっと考えていた。すでに、AIと俳人の俳句対決も行われて、ほぼ互角だったとか。ことばの組み合わせだけでも、おもしろい句はできるかもしれない。では、こころは、人生の経験は作句に必要ないのか?……なぜ川柳を書くのか、考えさせられた。

山折さんは、ご自身の老いに伴う死生観の変化を語られた。西行法師にはじまり、親鸞、医師の長谷川和夫氏などのお話はとても興味深かったが、ここでは省略する。現在の心境は、「90になったら勝手に死なせてくれ」。尊厳死、安楽死など、死の規制緩和を求めたいと仰った。
そこで、AIが登場する。ロボット研究の第一人者である阪大の石黒教授に、釈迦アンドロイドと、イエスアンドロイドの制作を依頼されたそうだ。それぞれの宗教の知識をすべて詰め込んだアンドロイドに、90歳以上の人間の安楽死について問いたいそうだ。
死ぬことのできないアンドロイドに、死というものを理解することができるのか?私も、アンドロイドの回答を待ちたいと思う。

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