« 2019年7月 | トップページ | 2019年9月 »

2019年8月

2019年8月27日 (火)

虫集く

 

朝夕のひんやりした空気。夏は去りつつある。

友人の旅の留守に、鈴虫を預かることになった。


大きな広口のガラス瓶に、数多の鈴虫。

一匹が声を震わせると、共鳴して一斉に他の虫たちも

鳴き始める。

涼やかな輪唱、いや斉唱はオーケストラを思わせ、

その音色の深さに感動する。

 

「虫集く」、その名の通り集まっての虫の音楽会。

すだくという言葉の響きに、その表現に今更ながら

古語の味わい深さを思った。


茄子の馬を一頭、餌に放り込む。

これで、二、三日は持つ。


留守の間、無事に鈴虫を守れますように、と祈りつつ

今夜も静かに秋の音楽会。

 

 

 

 

2019年8月19日 (月)

選は創作

水原秋櫻子の『高浜虚子』を読んでいる。

すでに読んだ人には場所塞ぎだが、面白いと思う箇所があったので紹介する。

ある年の5月のホトトギスの例会。

題は「麦藁」 虚子選

    螢打つ麦藁細工すてゝあり    名合今更

虚子「この句は蛍狩りに出かけて、団扇などで蛍を打っていると、その道端に麦藁細工が捨ててあった。

すなわち意味は螢打つで一度切れ、それから麦藁細工捨ててありと別なことに移ってゆく。こういう

叙法は新しいものです。」

虚子の批評に対して、

野鳥「私はこの句については、先生とちがう解釈をしています。螢打つは当然麦藁細工にかかるべきもので、

田舎ではよく蛍を打つ麦藁細工を作ります。叙法からいっても、そうとるのが自然ではないでしょうか。」

虚子「あなたはそう解釈されるか知りませんが、私は説明したような意味で採ったのです。あなたの解では

平凡になってしまうでしょう。」

野鳥「平凡になるかどうかわかりませんが、私の解の方が自然だと思います。」

虚子「選者というものは、句を自分の考えのように解して採るものです、ですから私はいつも選句は選者の創作だと言って

います。」

野鳥「それでは今更君の作意はどうなのです。」

今更「私の作為は野鳥先生の言われた通りです。私の郷里では麦藁細工で蛍を打ちます。それをそのまま詠みました。」 

虚子「作者の作為ばかりが尊重され、選者の解釈が認められなければ、私はホトトギスの雑詠を選することはできません。」

そう言うと、机上にあった帽子と風呂敷包をとり、あらあらしく扉を排して出て行った。

・・・・・・・

長々と何が伝えたくて引用したのだろう。

この場面のやり取りは、かねてから快く思っていない関係がベースになっていたらしく、また秋櫻子の主観が反映している。

私にとってはよく耳にする「選は創作」ということについて、虚子がどういう意味で言ったかが分かり面白いと思ったのである。

本書は、虚子門であった秋櫻子が、そこを離脱するまでの経緯を、当時の若い俳人(その中には素十や誓子その他多くの俳人たち)

の姿を含めて詳細に既述した自伝である。

 

 

2019年8月16日 (金)

縦書きか?

最近、「縦にかけ」石川九楊、という本を読みだした。
日本語は縦に書くようにできていて、脳の構造も縦に考え、書くようにできているという。縦に書くときと、横に書くときでは文章の内容も変わる、というのだ。
この考えは以前からあって触れたことがあった。が、私は内心、いつの日にか毛筆がなくなったように、横書きが市民権を得るのではないかという思いが今もある。
カタカナ言葉や数字が増えた時代に、はたして縦書きに拘るものか?しかし「漢字圏の人間の思考の底辺」に関わる部分においても、かなり強引に縦書きを訴えている。まだ読みはじめなのでたのしみに読み進もう。

2019年8月 8日 (木)

眼力

Twitterにドローンで撮影した、花火映像が流れてきた。地上から見上げるのとは違って、目の前でひらく花火。混雑した会場で見るより、自宅で画像を眺める方がずっときれいと添えられていた。そうだろうか。花火の音、煙、火薬の匂い。たまに、筆が滑ったようにはみ出す花びら。迷子のアナウンス。「すごい、すごい」を連発する人。花火の合間の沈黙と風。あるいは、ベランダから見る音の小さな花火。道ゆく人の下駄の音。終わった直後の空。花火を見るということは、花火だけではないからこそ、私だけの今年の花火を感じることができる。

墨作二郎さん主宰の吟行会「散歩会」がなくなって、2年半が経った。月に1度、1時間半から2時間、見ることに集中して書く時間がなくなってしまった。そして、知らず知らずのうちに、川柳の目が弱ってきているように思う。

柳宗悦は「茶道を想う」の最初に、見ることを書いている。「彼らは見たのである。何事よりもまず見たのである。見得たのである。凡ての不思議はこの泉から湧き出る。誰だとて物を見てはいる。だが凡ての者は同じようには見ない。それ故同じ物を見ていない。ここで見方に深きものと浅きものが生れ、見られる物も正しき物と誤れる物とに分れる。見ても見誤れば見ないにも等しい。誰も物を見るとはいう。だが、真に物を見得る者がどれだけあろうか…(中略)…茶人は眼力の茶人である」。実に「見る」を20回も繰り返して、見ることを説いていた。「柳宗悦 茶道論集」

   
   増水の川ひとしきり見て帰る  桐子

 

« 2019年7月 | トップページ | 2019年9月 »