2019年3月16日 (土)

哲学者

先日、半端ないごりらと言われる東山動物園「シャバーニ」に

会いに出かけた。

立派なコンクリートの部屋、でうつむき加減に座っている彼は、

確かにイケメンだった。

哲学者のような風格さえ醸しだしている。

 

他にも引き締まったお尻、むきむきの筋肉(私には分からなかった)が

魅力のポイントと言われている。

 

少し悲しいが、こんな物静かな思慮深い雰囲気の人間には、暫くお目に

かかっていないような気がした。

 


 

     人間でいるのに疲れドラミング    くにこ

人間でおわりたいよと神頼み

 

2019年3月12日 (火)

三段跳

3月例会では、つづきの会きっての句会巧者、岩根彰子さんの課題吟を取り上げた。

柊馬さんが、ご自身のブログ「柊馬の川柳フェスタ」でも書いておられたが、作品鑑賞でも批評なく、書き方にのみ注目してみるのはとても新鮮だった。考えてみれば、料理の世界でも、旨い!と思えば、味はもとより、材料の吟味や調理法を研究するはず。個性が際立っているとか、彰子ワールドなどと味わっているだけでは、何も学べないことがよく分かった。

して、彰子作品。たとえば、このような

題「熱」   解熱剤にする出目金の欠伸

題「9」   九紫火星を高温で揚げる

題「迷う」  神さまが優柔不断で人魚姫

ひと言で表すなら、三段跳。題を踏台に、跳ぶ、さらに跳ぶ。ときには、跳びながら捻ったり、開脚したりしてみせる。それは跳馬のようであったり、フィギアのジャンプのようであったり。見れば見るほど、鍛え上げた筋力と、習得した技の数々と、熟練の余裕が感じられた。

なかで、いちばん好きな句をあげるとすれば、こちら。この「負けたわ」は、戦争かもしれない。何が起きても、こうして生きてゆく、生きてゆけるのだと思う。

題「名」  日本負けたわ金魚さん青虫さん

2019年3月 7日 (木)

ベーゼンドルファー

先日、神戸でウイーン生まれのピアノ、

ベーゼンドルファー・ヴィエナモデルの

お披露目コンサートへ招かれ行ってきた。

 

このピアノが出来上がるのにおよそ100年という歳月がいるという。

何とも言えぬふくよかな音色そしてピアノの佇まい。

久々にゆったりと至福の時が流れた。

耳にも目にも春がやってきた。

 

 

五感いま春の幻想即興曲   せつこ

 

2019年3月 5日 (火)

春の鐘

三井寺に行った。

比叡平の辺りは、一面の霧で真っ白。

急カーブ続きの道をゆっくり下った。

霧は消えたが、天気予報通りの雨。

この、柔らかな雨の名を考えてみる。

春雨ではそのまんま。

そうだ、小糠雨、と納得する。


雨の名を指折り、三井の晩鐘の余韻に浸り乍ら

人の居ない広い境内をゆっくり巡った。

檜皮葺きの何層もの屋根に、雨はどこまで届くのだろう。

太い柱、床板の木目模様の美しさに立ち止まる。


ひとつ落とし物をした。

お気に入りのマフラー。

長いこと、私を温めてくれた赤いマフラー。

どこかで、心細げに雨に濡れているだろうか。


出あうのも失くすのも、これもご縁、と言い聞かせる。

少しさびしい春の始まり。

 

2019年2月27日 (水)

川柳性

順序から言えば、川柳が川柳であるところの川柳性は、前句附けから始まった。

まあ、それの緩みが少々あっても発展的迂回には思わぬ愉しみもあるだろうからいいのだが、気が抜けただけの句を読まされる腹立たしさが鏡となって我が身の懶惰を写す(なんと大袈裟な)。

先の例会で題詠に働く川柳性の確認をしたのは、小人数限定の当会でのやり安さを利してのことで、遠景に前句附、やや近景に私川柳が在った。

近景での川柳界という大枠の中で、単純で強固な「川柳に私の思いを書きましょう」という近代的な意識の大流行期があって、其処で「私の思い」の表象に川柳性が大いに働いて、これが書店を賑わすまでに至ったのだから、趣味のレベルからいえばまあ、川柳性は大したモノだったのだが、表象レベルを一所で止めてしまう微熱の浸潤性が在って、これを対象化して考えるちからが川柳人に無かったとも云える。

昨日、ネットで読んだ俳句に

  歯医者待つ二二六の晴れた空    野口 裕

が在った。

川柳性から言えば、絶妙の飛び具合!!

2019年2月19日 (火)

光景、そのⅠ

この頃、若い旅行者たちの「借り和服姿」が、

いやみなく似合っていると思えてならない。

始めの頃は、着付け下手が気になって仕方なかったのに

そうではなくなったのはどうしたことなのか・・・

 

神社の多い京都のことである。道沿いの小さな神社でも、

参道の入り口には神域を示すに鳥居がある。

名だたる神社の大きな鳥居は別として、小さな「木の鳥居」や

「石の鳥居」に和服姿が出入りするその光景に愛着を感じるのは

歳を経た所為なのかDNAが騒ぐのがわかる。

 

そこに女性の華やかな「借り和服姿」が出入りするのを見れば、

我々は郷愁にかられてしまう。

 

すきっと着ていなくても良い。

懐かしい時代が吐息するようで嬉しく感じてしまう。

 

ぶかぶかの足袋も草履も何やらゆかし、なのである。

 

 

2019年2月18日 (月)

噓、つくりもの、フィクション

必要あって古い黎明誌を繰っていたら片野智恵子さんのエッセーが
 

目に留まった。2003年5月発行の第15号である。

 

「ともすれば、ことばの美に酔うことの多かった私に、石田柊馬さんは
 

『噓・つくりもの・フィクションを書けば必ず短詩文芸は作者の心情を
 

反映する。現に石部明氏は、川柳で大ウソを書いてやろうと思って
 

川柳をはじめたのですよ』と話してくださった。感覚的にはわかっては
 

いても、積年の頑固な土壌は容易にくずれそうにない。」

 

このパラグラフは今の私の思いに重なる。「短詩文芸は作者の心情を
 

反映する」とはどういうことか。短詩文芸の形式の恩寵のようなことか。
 

よく分からないが、ともかく「短詩文芸は作者の心情を反映する。
 

だから自由に書け」の意と受け止め、我が「積年の土壌」を崩して
 

いきたいと思ったのである。

 

 

2019年2月12日 (火)

仮面。

人との繋がりが希薄なのか濃厚なのか判らない時代。

プライバシー、個人情報保護とかで人とは深く関われぬ。

 

友達といってもスマホで繋がっている、浅く広い関係。

自分で相手を判断しなければならないのだ。

 

近頃、男性も化粧するらしい。

イケメンは仮面かもしれないのだ。

騙されないためにも確かな目を持っていたいと思う。

 

 

  過去未来 額の傷に問うている   くにこ

2019年1月30日 (水)

あたらしい問い

就職活動の面接で、「あなたを家電製品にたとえると何ですか?」と質問されたという話を聞いた。

私なら何だろ……と思わず考えてしまう。照明のような明るさも、冷蔵庫ほどの包容力も、ルンバの勤勉さも持ち合わせていない。社交性、柔軟性がなくて、あまり活躍しない……ふとん乾燥機? 採用されそうにない(笑)

川柳は、前句(七七)の問いに対する、答えの五七五からはじまった。そして、前句の問いがなくなった今も、何かしらの問いの答えであるような句が多い。
採用面接では、想定問答が多数作られている。世の中の問いはあまり変化していないのだろう。問いのあたらしさも、考えてみてもいいかもしれない。

2019年1月23日 (水)

酒肴

我が家の夕食はたいがい和食である。

なぜならば、主人が少々晩酌を嗜む。昨夜も子持ちの甘海老、鱈の白子を用意した。甘海老をまな板皿に雲子を白い小鉢に入れた。

主人がふらりとテーブルの傍まで来て白いものを白い器はあかんでぇ~と言う。

あっ、又、始まったと思った。じゃあ自分で器選んで替えて、私はなるべく穏やかに言った。主人は黒い小鉢にこんもり装った。

 

さて、朝食はパンである。トースト、燻製たまご、燻製胸肉、ベリーリーフ、トマト、頂き物の柑橘などを白いお皿に載せていただいた。

トマトジュースと豆乳も好きな方を飲めばと置いておく。主人はトマトジュースを飲み干した。

テレビに目を向ける。インフルエンザ蔓延のニュース、主人が軽い咳をしてる、テーブルの端に以前、飲み残した風邪薬・・・・

これ飲んどく?と私、しかし新しいコップはお勝手に、ジュースを飲み干したコップを動かした。

しまったと思ったが後の祭り!!こんなんで飲めるか!完全主義の主人、良いかげん主義の私、何でも良いと思ったら人間お終いやねと笑いあった。

     隣から法螺貝部屋干し乾かない  彰子

 

«思い出