2019年8月19日 (月)

選は創作

水原秋櫻子の『高浜虚子』を読んでいる。

すでに読んだ人には場所塞ぎだが、面白いと思う箇所があったので紹介する。

ある年の5月のホトトギスの例会。

題は「麦藁」 虚子選

    螢打つ麦藁細工すてゝあり    名合今更

虚子「この句は蛍狩りに出かけて、団扇などで蛍を打っていると、その道端に麦藁細工が捨ててあった。

すなわち意味は螢打つで一度切れ、それから麦藁細工捨ててありと別なことに移ってゆく。こういう

叙法は新しいものです。」

虚子の批評に対して、

野鳥「私はこの句については、先生とちがう解釈をしています。螢打つは当然麦藁細工にかかるべきもので、

田舎ではよく蛍を打つ麦藁細工を作ります。叙法からいっても、そうとるのが自然ではないでしょうか。」

虚子「あなたはそう解釈されるか知りませんが、私は説明したような意味で採ったのです。あなたの解では

平凡になってしまうでしょう。」

野鳥「平凡になるかどうかわかりませんが、私の解の方が自然だと思います。」

虚子「選者というものは、句を自分の考えのように解して採るものです、ですから私はいつも選句は選者の創作だと言って

います。」

野鳥「それでは今更君の作意はどうなのです。」

今更「私の作為は野鳥先生の言われた通りです。私の郷里では麦藁細工で蛍を打ちます。それをそのまま詠みました。」 

虚子「作者の作為ばかりが尊重され、選者の解釈が認められなければ、私はホトトギスの雑詠を選することはできません。」

そう言うと、机上にあった帽子と風呂敷包をとり、あらあらしく扉を排して出て行った。

・・・・・・・

長々と何が伝えたくて引用したのだろう。

この場面のやり取りは、かねてから快く思っていない関係がベースになっていたらしく、また秋櫻子の主観が反映している。

私にとってはよく耳にする「選は創作」ということについて、虚子がどういう意味で言ったかが分かり面白いと思ったのである。

本書は、虚子門であった秋櫻子が、そこを離脱するまでの経緯を、当時の若い俳人(その中には素十や誓子その他多くの俳人たち)

の姿を含めて詳細に既述した自伝である。

 

 

2019年8月16日 (金)

縦書きか?

最近、「縦にかけ」石川九楊、という本を読みだした。
日本語は縦に書くようにできていて、脳の構造も縦に考え、書くようにできているという。縦に書くときと、横に書くときでは文章の内容も変わる、というのだ。
この考えは以前からあって触れたことがあった。が、私は内心、いつの日にか毛筆がなくなったように、横書きが市民権を得るのではないかという思いが今もある。
カタカナ言葉や数字が増えた時代に、はたして縦書きに拘るものか?しかし「漢字圏の人間の思考の底辺」に関わる部分においても、かなり強引に縦書きを訴えている。まだ読みはじめなのでたのしみに読み進もう。

2019年8月 8日 (木)

眼力

Twitterにドローンで撮影した、花火映像が流れてきた。地上から見上げるのとは違って、目の前でひらく花火。混雑した会場で見るより、自宅で画像を眺める方がずっときれいと添えられていた。そうだろうか。花火の音、煙、火薬の匂い。たまに、筆が滑ったようにはみ出す花びら。迷子のアナウンス。「すごい、すごい」を連発する人。花火の合間の沈黙と風。あるいは、ベランダから見る音の小さな花火。道ゆく人の下駄の音。終わった直後の空。花火を見るということは、花火だけではないからこそ、私だけの今年の花火を感じることができる。

墨作二郎さん主宰の吟行会「散歩会」がなくなって、2年半が経った。月に1度、1時間半から2時間、見ることに集中して書く時間がなくなってしまった。そして、知らず知らずのうちに、川柳の目が弱ってきているように思う。

柳宗悦は「茶道を想う」の最初に、見ることを書いている。「彼らは見たのである。何事よりもまず見たのである。見得たのである。凡ての不思議はこの泉から湧き出る。誰だとて物を見てはいる。だが凡ての者は同じようには見ない。それ故同じ物を見ていない。ここで見方に深きものと浅きものが生れ、見られる物も正しき物と誤れる物とに分れる。見ても見誤れば見ないにも等しい。誰も物を見るとはいう。だが、真に物を見得る者がどれだけあろうか…(中略)…茶人は眼力の茶人である」。実に「見る」を20回も繰り返して、見ることを説いていた。「柳宗悦 茶道論集」

   
   増水の川ひとしきり見て帰る  桐子

 

2019年7月28日 (日)

無題

先日吟行で現代抽象絵画展に行った。

色が溢れ息苦しい程に作者の思いが飛び交っていた。

  
石の形のキャンパスから滴る色たちの「題」は「無題」。

次の絵もその次の絵も「無題」。

これほど個性豊かな作品を生んだ作家の表現のテーマが「無題」。

見た人が其々で感じろという事だろうか?


作品の内容が大きすぎ、表現が「題」」に収まらなかったのだろう。

たしかに川柳でも「題詠」は窮屈だ。

 

     よーいドン無題無題を膨らます    くにこ

 

 

 

 

 

 

2019年7月20日 (土)

蝉が鳴いた

又ひとつ、変な収集癖がつきそうである。
二三週間前から蝉が鳴き出した。
気がついたら蝉の脱殻を拾っている自分がいる。
確か何年か前子どもさんが瓶に脱殻を積めて自慢しているのを気持ち悪がっていたのは私である。

この現象はひょとしたら蝶の飼育からの延長線上なのだろうか?
今年も5月から始まったナミアゲハの羽化が本日、7月19日77頭になった。
すっかり蝶の飼育にはまってしまった。

   蝉ないて親だったこと子だったこと   彰子

2019年7月 7日 (日)

笑い

夏井いつき先生で人気の「プレバト」俳句を観た。
今回のお題は「梅雨明けの銀座」。最下位で凡人査定された「夏服に腹出る四十となりにけり」の句について、才能あり査定された芸人さんが、「サラリーマン川柳で落選した句みたい」と評し、夏井先生は「それほどひどくないです」とおっしゃった。やはり「腹出る」という笑い要素、俗っぽさが、川柳イメージなのだろう。少し前の回では、夏井先生が「意味でおもしろがらせると川柳になりますから…」とも言われていた。

ほんとうのおかしみは、笑いにかなしみや怒り、さみしさが混ざっている。それが、あとを引く。そういう川柳も、もっと読まれるといいなと思った。

  わけあってバナナの皮を持ち歩く  楢崎進弘

  電柱は精神力で立っている  丸山進

  お手洗い借りるこの世の真ん中で  広瀬ちえみ

  虫に刺されたとこを人は見せたがる  金築雨学

  妻一度盗られ自転車二度盗らる  渡辺隆夫
  

2019年7月 3日 (水)

令和の雨

 

  令和元年梅雨より先に夏来たる  大橋文子

 

本日掲載の、朝日新聞京都川柳の一句。

なかなか雨はやって来ず、梅雨入りも記録的な遅さだったが、

さにあらず、七月に入って梅雨前線猛暴れ、九州地方の大雨被害が

ニュースに流れる。被害の少ないことを祈るのみ。

 

 雨が降る献花の山に雨が降る    上住こうい

 

朝日柳壇のもう一人の選者、藤本秋声さんが六月に逝去された。

突然の訃報に驚く。闘病中のことは存じ上げていたが、お元気な

顔を大会で見かけすっかり安心していた。

 

「川柳家だといって誇れるものなど何もない。ただ少し世界が広くなった

ことと、少し心が豊かになったことは、自分でもよかったと思っている。」

 

新年の選者特集に秋声さんが書かれたひと言を読み返し、改めて秋声さんの

お人柄を偲んだ。

こころよりご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

2019年6月24日 (月)

夾竹桃

 戦後という夾竹桃が胸に咲く     作二郎

 夾竹桃零れて語り部は熱い        伸吉

川柳誌の夏号が届いた。巻頭を飾る作品に魅入ってしまった。
戦後の焼け野原、盛夏の先駈けと言わんばかりに咲き乱れる夾竹桃。作者の胸に去来するものは?想いを馳せた。
勉強会で、作品を手放すのが速すぎると注意されたがもっともっと対象と語り合わねばと痛感させられた。

2019年6月15日 (土)

ストレス社会

とにかく世の中騒がしい。よく理解できない事だらけ。

本当か嘘か?誰を信じたらよいのか分らない。

これも駄目、あれも駄目。


AI,
 SMS、ローマ字、カタカナ言葉にネットの発達。

ストレスは増えるばかり。


ペットには愛情を注げるのに人間には無関心。

不可解な犯罪がニュースにあふれる。

とてもついていけない時代になってきた。

 

   

あれもNOこれもNOくちびる半開き   くにこ

 

 

 

 

2019年6月10日 (月)

ことばで…

劇団維新派の松本雄吉さんのことば、「表現じゃない、行為なんや」がずっと引っかかっている。
維新派の舞台表現は、白塗りした役者が不自然な台詞と動きで演じる虚構のかたまりのようなもの。それが、表現ではなく、行為なんだと。行為になるまで、表現を身体にとり入れたということか……。

川柳を「作る」という人もいるくらいで、川柳は書くより作るに近い。書きながら、どこかできてしまったものにならないかなあと考える。今の気分や、天気、食べたもの、見たもの、触れたものと、今のことば。偶然性、一回性ということで言うと吟行があるが、これまた苦手。作ることを、なかなか越えられない……。

  なめらかに目鼻失う舟の人  桐子(姫路吟行)

 

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