2017年8月19日 (土)

構文

今月、話題になった「構文」について。

私は、「構文」を、主に川柳の構造、かたち、仕立てとして使っています。入れもの、に近いでしょうか。
「現代川柳の精鋭たち 28人集」(北宋社)で読んだときに、柊馬さんは、構文開発をした川柳人だと思いました。

   産声ですか秋の木曽川ですか

   時刻表の方へまがってゆくきゅうり

   パンを買う 鳥に重油を着せたりして

(     )ですか(     )ですか、(      )の方へ(      )する(      )、このような仕立ての句は、今でこそよく目にしますが、本の中では目を引きます。茶碗や、湯呑み、お椀の中に、グラス、ペットボトルが置かれているような。(たとえが軽くてすみません)

まったく新しい入れものに、はじめてのものを入れる。これはやりたくてもハードルが高い。せめて、古くからある入れものに新しいものを入れるか、新しい入れものに馴染みのものを入れるかしたいと心がけてはいるのですが…。

それで、どちらに開発の余地が残されているかというと、入れ物=構文の方ではないでしょうか。実際、詩や短歌、俳句には、構文の新しさを感じさせる書き手が現れてきています。川柳にもちらほら。いま、構文が気になります。

   水を飲むちょろいけものでのけもので   桐子       (あたらしくありません)

2017年8月14日 (月)

DDIな話


ここひと月、くしゃみと鼻水に悩まされています。

薬を使わないと終日ティッシュペーパーが離せないという

状態です。花粉性かもしれませんが、自覚的には温度変化が原因の

気がしています。

こんなとき某社の鼻炎カプセルを飲むと収まることは分かって

います。しかし、抗ヒスタミン剤の眠気と口の渇きが不快です。

そこで、服薬後眠くなりにくいというのがうたい文句の鼻炎薬を

購入しました。14日間飲んでみましたが、効き目の立ち上がりの

点で不満でした。

今日別の鼻炎薬を購入しました。満足度はまだ報告できませんが

興味のある方は声をかけてください(誰もいないか)。

 

   ぷんぷん匂う放課後の横っちょ   ひでお

 

2017年8月13日 (日)

おいしい。

みなさまご無沙汰、ごめんなさい。

楽しくて笑い転げながら句会へ行ってはいるものの

もっと真剣で深いことらしい。

 

わからんようなわからんようなことが多いけれど、
わからんから求め続けられる気もする、

歯が立たんものもおいしいな。

 

2017年8月 7日 (月)

植木鉢

庭の手入れに植木屋さんに入ってもらった。

つんつるてんに刈り込まれた庭はいかにも涼し気。


ついでに鉢の始末もお願いする。

大小さまざまな鉢が出てくるわ出てくるわ。

いったい何をこんなに植えていたのか、我ながら

呆れてしまうほど。


川柳と出会う前は家にいて、花や木に夢中だった。

風鈴草、野紺菊、都忘れ、心惹かれた青い花。

 

鉢から出した土は、庭の真ん中にうず高く積まれ、

絡まった根の残骸が侘しい。

 

土の中に球根を見つけた。

水仙、ムスカリ、クロッカス、アマリリス。

宝さがしするように、夢中で土の山を崩す。

置き去りにされてきた夥しい数の球根は、黙って

生を繋いできたのだ。

風を当て乾かし、秋になったら、ベランダの鉢に

植えこもう。

 

私を慰め癒してくれた庭の草木に、ありがとうと、

さよならを告げた。

 


 ほんとうはとてもけなげなさるすべり

 

 

2017年8月 4日 (金)

くちばし

先月の事、病院の軒下に燕の巣を見つけた。

雛が四羽押し合い状態で思いっきり口を開けている。

親鳥は忙しなく餌を与えに戻ってくる。

この情景を言葉で映像化してみた。

   燕の子◇◇◇◇ ◇◇◇◇  

 

◇が精一杯ひらいた雛の嘴にみえないかな。

 

親が順番に餌を与えているようには見えないので調べてみた。

親は雛の口を覗き、胃の中の状態を瞬時に判断し空腹な子から

餌を与えているらしい。

満腹の雛は少し下がり餌の争奪戦に加わらないようだ。

つまり公平らしい。

 

近頃子供への虐待や学校でのいじめがニュースになっている。

人間として恥ずかしい。

 

 

 

2017年8月 1日 (火)

比叡山

七月末所属している山の会のメンバーと

八瀬から比叡山山頂・大比叡(848m)に登りました。

とても暑く登りは汗・汗・汗 下りは延暦寺から坂本へ。

昔から比叡山は京都の人達が手軽に登る山のようで

保育園児や小学生の登頂記念プレートがたくさん掛かっていました。


私が子供の頃、頂上にそれはそれは怖いお化け屋敷があり

怖さのあまり前にいた見ず知らずのおじさんにしがみつき

シャツをくしゃくしゃにして出てきた記憶があります。

比叡山は怖くて涼しく懐かしい山です。

    えい山へ涼を求めてヒュードロドロ    せつこ

2017年7月28日 (金)

ところゆきら さん

 

 少しこごめた背でお池通りを渡ってくる人は“所ゆきら”さんだった。

 横断歩道を歩かずにそのまま道を越えてくる人だった、と思い出す。

 自由な人だから川柳作品も伸び伸びしていた。

 数か月前に柊馬リーダーがテクストとして配られた一枚は、
 昭和32年に
発表された所ゆきらさんの胸のすくような連作である。

 

    石 庭       所 ゆきら

  それは坊主まるもうけと噂の石のある庭

 

  と一行目にあり、どこの石庭なのか一目了然。
 意識しながら読み進められる気軽さは、
横断歩道を渡らない人に通じる。
 後の方で、

 あくびすれば石もねころんでいる

 じっと見ていると石あちら向き

 あごに手をやれば 石ふんと言う

 帰りかけると ふりむけという石

        ×

 あげくのはてに 

     きざな石だと言ってやる

 はてさて 何でもなかったと言い切れず

  と、言いしめて終わる。
 胸をすかせてくれる昭和作家に改めて振りむいている蒸し暑い夏のいち日。

 

   定年はそのまま過ぎるゆゆゆゆ      きくこ

 

 

 

    

 

2017年7月24日 (月)

誕生日

文月を待っていたかのように庭の山椒の葉へアゲハチョウが卵を産みつけた。

庭へ水遣りのたびに幼虫の成長を楽しみにしていた。

が、突然にいなくなることが続く。裏庭は小鳥や虫たちにとって

ちょっとした森になっている。幼虫には危険がいっぱいだろう。

老夫婦相談の結果、家の中で育ててはと相成った。

 

せっせと産み付けられた胡麻のような命を2個3個と運ぶ。

最終的には11個の命の世話をする次第に、

Image005jpg

・・・程なく我が家の山椒の木は

丸坊主に。町内を歩き回り、理由を伝えて何とか山椒の枝を確保、大食漢達の命を繋ぐ。

 

今朝がた散歩から帰宅すると、主人が1オクターブ声を上げて「ほら見てごらん」と、飼育箱を指差す。

 

羽化をしたのだ!

とても不安げにしかし、威厳ありげに美しい羽根を開いたり閉じたりと。

もう朝食は後回しである。

仏壇の扉にぶら下がり5時間が経過した。

Image006jpg

蝶はゆっくり部屋を旋回、

そして、一気に庭のアジサイの葉裏へ着地した。

 

息を凝らして見守る。と桜の老樹へ舞った。

桜の細い枝先はちょうど比叡山へ向いている。急いで2階へ駆けた。

窓を開け放ち、身を乗り出してアゲハチョウの命と息を合わせた。

 

 てふてふのいのちはそうだヒアルロン酸   彰子

 

2017年7月20日 (木)

横着

「時制」、咀嚼中であります。三日前のフランスパンの歯ごたえであります。

句会のなかでは、私の句について、「横着」という評がありました。先日、別の句会では、「(句の)集中力が足りない」とも評されました。 どちらも、親からさんざん口酸っぱく言われたことでした。わたしが、どこまでもわたしもままで、わたしを通って出るものもそうであるという……。こわいことです…部屋の温度が1℃ほど下がります。

2017年7月19日 (水)

時制

無記名45句を互選、入選各5句を発表。笑い声が絶えない互評?が在って、主に技法についての感想を私が挿んだ後に、作者別作句一覧が配られる。

つまり此処で、視線が個々の作家に移ることになる。私にとっては定員オーバー気味の心地よいプレッシャー、その自覚の時間となる。

  電池残量チェッカーの針振れて蝉   桐子

  捨てるための猫百匹を用意する

  片陰のすっとからだにもどる影

  冬瓜育てるお客様窓口

  衿汗脇汗繁殖する記憶

「電池残量」「捨てるための」「用意する」「からだにもどる影」「冬瓜育てる」「繁殖する記憶」などの時制を曳く作句の様相に、作者の表現技法の現在が見える。

私は、この時点で、会をテクスト論へも作家論へも進めることなく、例えば、川柳性が作者に内在する時制を曳き出している働きに注目するだけで(昨日は此れにも触れなかった」)一旦、キリをつけるのを何時ものこととしている。

かつて私川柳が大流行したときに、自我の表出こそ近代川柳の到達点だとばかりに発想時点で川柳性が棚上げされたが、さて作句では、皆んな、川柳性が曳き出す表出力に靡いていた。是によって私川柳が、暗喩、イメージ、フィクションなどの技法を前進させたことが思い出されるが、昨日の会では私川柳の限界や私川柳論は無用。

だが、一人の川柳人が川柳性に拠って内在する時制を曳き出している現実が、句会形式での集句一覧では見えないこと、句会の限界の一端が此処に在ることが再認識できた。これが私にとっての昨日の会の収穫。うれしかった。

帰宅後、え?、作者、時制を書いていることに留意していたかな?と、ブログに向った次第。

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