2017年12月 2日 (土)

ドミノ

 今年は忙しすぎたせいか、年末に近づきネガティブになっている。

良いこと嬉しい事は遥か遠くなのに、嫌な事や新聞種になることを、

身近に聞く。

 

インフルエンザ、骨折、帯状疱疹など、体調を崩している人を周りに

聞くことが多くなった。

 🚔パトカーや救急車のサイレンも、師走の町を気ぜわしく走りまわり、

あのけたたましい音でチリチリ私を不安にさせる。

 

 

    溜息はドミノ倒しでやって來る     くにこ

 

2017年11月30日 (木)

ユリカモメ

散歩といっても帰りはここのところバスである。

境内で大粒の銀杏を数個拾っていて、いつものバスに乗り遅れた。

歩いても20分足らずの道のりである。
バスに乗っていては決して見えない
風・匂い・景色に会えた。

 

 河川敷へ降りる。首が怠くなるほど曇天を仰ぎユリカモメを追った。

ユリカモメには団体行動の苦手な輩もいる。
その背中になぜか頷いてみたり。。。。。

河川敷に、先日の大雨に桃太郎の桃の如き大きな花梨が4個流れ着いていた。

黄色い頭を持ち上げると、とてもいい香り。持ち帰ることにした。

 

 しばらくは机の上に置いて眺めよう。
レシピを調べると洗って薄く切り
、蜂蜜を入れて数か月放置するのみ、
種がまた喉にとても良いらしい。

私にピッタリのレシピ。浮き浮きしてきた。

      

    〇□×でもないさ さばさば花梨  
彰子

2017年11月21日 (火)

阿多の大野の

 

真葛原なびく秋風吹くごとに阿太の大野の萩の花散る

 

                (作者不詳)

 

ついくちづさみたくなるこの歌に、新聞紙上で久しぶりに会った。

万葉集のこの歌のどこに私はひかれるのだろう。

 

阿多の大野は、五条市とか吉野の辺りとか。
葛の葉の猛々しさと、
かぼそい萩の花の対比。

奇をてらった言葉や表現はひとつもないが、すんなり入ってくる。

 

今、「葛の原を秋風が吹くたびに萩の赤い花が散っていきます」と

書けば、どう評価評論されるのだろう。

情景描写と、片づけられそうな気もするが、時代を超え愛唱される

のは、そのおおらかな言葉のひびきにあるのかもしれない。

 

まくずはらなびくあきかぜふくごとにあたのおおののはぎのはなちる

 

やわらかな母音のリフレイン、なびく風の空間や散り零れる花の色へ

移る視線のひろがり。

 

なんでもないことをなんでもなく書けたらいいな、と思う。

 

2017年11月18日 (土)

正倉院展

柊馬さんからいつも「もっとあつかましならんとアカン」

と言われ続けている。

それが中々上手くいかない日々。

「句の説明はうまいけど、句はヘタ」うぅ~ん。

秋の奈良は正倉院展でたくさんの人々でにぎわう。

今年は10281113まで20万人以上の入館者があったらしい。

自宅から電車と徒歩で30分と恵まれた場所に住んでいるので

毎年見ている、空いている夕方4時以降に行くことにしている。


今年も、もしかしてあつかましさのヒントが戴けるやもしれぬと

会場である奈良国立博物館へ。


毎年話題になる宝物があり今年は

「緑瑠璃十二曲杯」という色ガラスのさかずき、

「伎楽面 迦楼羅」伎楽のお面、迦楼羅は霊鳥ガルーダに由来するらしい

「金銅水瓶」銅に金メッキの首の長い水差し
などなど数点があり なかでも

「琥珀数珠」これは金、銀、琥珀、水晶、真珠、など産地が世界各国に

散らばる国際的な数珠で、この数珠に魅せられた。


そしてあつかましくも川柳の上達を祈っておいた。

 

 

2017年11月13日 (月)

銀杏黄葉。

私用で仙台に出かけた。

地方都市だと思っていたが洗練された大都会であった。

 

市街地には樹木が多く植えられ、まさに杜の都である。

大通りのけやきの街路樹も見事。

 

そこここのビルの隙間に銀杏の大木や並木が見える。

その銀杏の葉の透明な黄色の美しいこと。

カラーインクか水彩絵の具の澄んだイエロー。

 

この黄には確かに見覚えがある。

何処かで誰かと拾い集めた落ち葉の黄色。

 

 

    古い日を切り取って見る銀杏黄葉     くにこ

 

2017年11月 8日 (水)

ゆるゆる

過日、「天の川銀河発電所 born after1968 現代俳句ガイドブック」刊行記念トークで、佐藤文香さんは、歌人にはたとえば穂村弘さんみたいな、作品も、批評も、エッセイも一人で全部できる人がいるけれど、俳人にはいないので戦隊もののように合体してやっていくしかない、というようなことをおっしゃっていた。

じゃあ、川柳は? 
先月のつづきの会で配られた資料、湊圭史さんの「川柳カード百句解題ー生でどうぞ」には、 「ーただし、この『価値がない』になるギリギリの瀬戸際に居るのが川柳、という気もする。」とある。
なるほど……、では、ゆるキャラ大集結でどうだろう。川柳人は、もっと個性を確立するべし!!(キャラだけなら、すでに「川柳ゆるキャラ図鑑」もできそうなんだけど、作品です、作品)

立て続けに大会、研修会に参加して、川柳は個の時代に入っていくのではないかな…とぼんやり感じた。いわゆる○○風みたいなのが薄れて、それぞれが自分の書き方を追求してゆくところへ。希望的観測かなぁ…。

2017年11月 2日 (木)

散歩会

 

一年ぶりの吟行、

 

空はどこまでも青く高く、刷毛でさらりと掃いたような薄い雲の下、

植物園の吟行を楽しんだ。

 

私の散歩会の初参加はほぼ10年前で、現在のメンバーの3分の2は

新しい川柳人。

成績はいつもビリのあたりをウロウロ・・・

 

今日はプリントされた資料で、皆さんの作品の傾向を勉強。

上位の作品を私なりの読み方で分析させていただくと、

インパクトのある作品は 独白( 断言 )・モノローグ・二物衝撃など

中でもイメージをリアルに読んでおられる川柳にこころ惹かれた。

 

今後、年二回散歩会を開催される予定とのこと。

とても楽しみである。

 

2017年10月26日 (木)

猫はパン

  ウチには猫がいる。“パン”と呼ばれている。
 「ただいまぁ」の代わりに「パ~~ン」と呼ぶと

のろっ~ と出てくる。

一緒に暮らす猫である。

 

ダンボールの空き箱が好きで、気がつけば身を丸めて

その中に居る。小さいめの箱の方が良いらしい。

丸まる具合でストレス発散?かな・・・

 

太っちょでのろいし大抵眠っている。

捩ってもよじっても箱に入りきれない。暫くして見ると、

片手だけその中に預けるようにして、箱の外で眠っていた。

思わずふきだしてしまったりする。

 

毛の色はキジトラ、施設に預けられて数カ月、迎えに来ない

家族に放っとかれた猫。

 

 

 

  笑う笑うパンちゃん アンフォルメ     きくこ

 

 

 

2017年10月16日 (月)

川柳性の件

~3回に分けて書きます(其の1)

 

8月例会『冨二の前号批評文』(「川柳平安」19676月号)の背景

 

私見では戦後から今日に至る川柳の流れの中に大きな曲がり角が二度在って、この冨二の文章は、その最初、1960年代の後半から1970年代に及ぶ約10年間に在った曲がり角の渦中で書かれた(ちなみに二度目の曲がり角は1990年代~2000年代の最初期であった)。最初の曲がり角は川柳人口の増加と競い合うような川柳誌の賑わいが在り、これを象徴するように幾つかの川柳誌で第三雑詠欄の設置(後述)が在り、川柳の幅の拡張が見られた。二度目は遅ればせながら川柳でのポストモダンへの抵触が在って、時代の変遷を記すようにアンソロジー『現代川柳の精鋭たち28人集』(北宋社 2000年 編集協力・樋口由紀子 大井恒行)が出された。

 

1)戦後10年~15

戦後の川柳といっても手許に資料がない。いまから半世紀も前に訊ね、聞かされた、言わば当事者の言に拠る川柳の総体的な在り方は、リアリズムへの拠りかかりであった。

尤もこのリアリズムは東西冷戦の世界の片方に在ったリアリズム指向の上っ面を曳くものだが、川柳では政治色は皆無で、庶民の日々の意識や感情のリアリティを望むものであった。

いわば敗戦後の世相のギスギスした尖り具合から僅かに外れた趣味性の時空、嗜好の世界での共感性の遣り取りに、互いの誠実性を感得し合う程度のものであった。尤も、其処には、低劣卑俗なバレ句への滑落を拒むストッパーの趣きが在って、これを証するように、僅かではあるが女性の川柳への参加が在り、ムクツケキ男どもは句会の席での自分を、民主主義社会の男女同権制度の推進者に擬すような意識を抱くことが出来たらしい。「皆優しかったよ、教えてくれたよ」と大先輩の女性から聴いている。

単純なリアリズム観(感)、要するに一句に作者の現実感、あるいは存在感の裏付けを大切にすることを持って作句の誠実とする程度の趣きであったが、其処には現実生活から片足外れたところに在る趣味性の交歓を好む意識が在った。川柳性が引き出す川柳味の生動感、其の共有が嬉しかったのだ。

●つまりこの時節の川柳でのリアリティの意義は、川柳を下卑たものとする社会の意識との劃然とした違いの創成であり、此れを持って敷居の内と外の違いを改めて構築、庶民性の文芸である川柳に自分達は居るという証のリアリティであった。

 

●川柳人は戦後の時節の活動を句会の再開から始めたという。句会の興趣との再会が強く望まれたのだ。共に生きていた。とにかく互いに元気な姿が確認できたのだ。それが時勢の大転換の後に如何様な川柳を書くのだろうかと、終戦が断ち切った過去より、前を向いての手っ取り早いリアリティについての認識であった。

いうまでもないが此れが数多の地域で在った。句会の様相が次に始まる紙誌の時代と其の結社活動の個性、其の色合いや質への拘り、あるいは遊興性の多寡の違いを明らかにする方向に繋がり、やがて川柳界の地図が描かれるような状況に進んだのであった。

実際、いきなり紙誌の活動を望んでも統制経済で紙が無かった!

そしてもちろん、紙誌を出せる懐状態から遠く離れての句会であった。ちなみに、戦後の句会が再開された時期の京都市内には結社が数社あって、その数の句会が5~6回在り、何処の句会でもメンバーはほぼ同じであった。つまり毎月、川柳人は句会に56回、出かけたという。勿論、川柳人には、食うため生きるための諸々の活動が昼に在って句会は夜であった。行きは市電で、句会後の喫茶や僅かな酒の後は、電車賃を惜しんで歩いて帰ることが度々であったと―――。句会での出費の後ろに日々の家族の像があって、脱落する人も在り、実際には其々の結社の内情に若干の懐状態の差が現れていたと聞く。

川柳の戦後は、いわば句会で始まり、やがて結社別の詩誌活動が始まる上昇機運が出来て、諸処方々で、嗜好の同種性と個別性が明らかに見えるに至り、嗜好の違いが一句のリアイリティの多寡に顕われて、結社の独立性を感得し合う時期が在り、やがて統合化の機運が始まるに至って、次の時代、昭和30年代になる。

●戦後の川柳人の多くは川柳味を庶民的なヒューマニズムの位相から望んだのであり、その道標がリアリティの有無であったのだ。

〇戦後、まだまだ窮乏期の中で、「関東に冨二と云う句会名人が居る」との噂が京都へ届いたという。(伊藤入仙・堀豊次、談)。東京大阪間が夜行列車で一晩掛かった頃であった。句会の冨二をいうより、川柳の句会に在った伝播力の凄さが思われるとともに、川柳が競い合い、比べ合う庶民の文芸であったことが解る。

〇句会名人と言われた冨二の作句法には、耳から入る川柳的な気分の好さが在った。

そして此の作句法の及ぶ川柳であることの切岸、枠の限界についての認識が、後の冨二の<川柳から詩への超出>を止める目途として機能することとなったと思われる。

其処には冨二がハーモニカを吹くことが好きであったことと同質の、自らの束の間の体感の愉快を愉しむ川柳観が在った。いわば草野球に通じるような体感が在ったのだろう。自作のライフサイクルの短時間性についての微笑が在ったとも想像される。体観的に自己の生を慈しむ個人主義と、其処に顕れる謙虚な身ごなしが、他者の眼に奥行きの深さを思わせ、あるいは陋巷に在る知者の柔らかな像が出来たのだろう。

●しかししかし、リアリズム云々より、そして戦後の川柳云々より、戦後の時期の川柳人の日常的な神経は、自己の周縁を気にするよりも、まず自己と家族の日々の安寧、今夜の飯は食えるだろうかに重心を置くものであった。

そして此の止むを得ない生活の位相が社会の民主主義化へ心的に靡いたところに、戦時中の苛烈な時節を何とか逃れたという実感が在った。もうこりごり、我が子に同様の苦を継がせてはならないとの意識が在った。其処からは、社会の民主主義化を旧来の利己主義が遅らせている図式が見えた。作句のリアリティ、其れを要求する読みには、民主主義社会化とリアリズムへの可成りの膨張感が在ったと思われる。そして民主主義の膨張感の漂いに符合する庶民的な知性が、冨二の川柳に在ったのだ。

●戦前戦中への逆コース(1949年以来、数年間云われた流行語。全体主義社会への逆戻り化)への警戒心が書くべき川柳にリアリティを伴わせる一端になっていた。

此の心性には、窮乏生活からの自己回収の急が在って、センチメンタルへの下降を拒むリアリティを為したのである。この意味で戦後の川柳人は興趣に在って興趣に溺れないリアリストであったのだ!川柳的な興趣を好み合う方向と、庶民の文芸としてリアリティを不即不離とする方向との二本柱が戦後の川柳を存在させ、川柳人の身を正させていたのであった(いや遊興性のみに遊んだ向きが絶対的に多かったので、この辺の川柳人の全体的な在り方から見れば、)割引!)

・尤も、明治の新川柳以来の川柳界には穏やかではあったが革新派が在って、川柳的な興趣と遊興性との短絡を批判的に見る視線や、詩性への指向など様々な言挙げや行動が在って、其処にはリアリティへの依拠も在った。これをなし崩しにしたのが戦争であったことは言うまでもない。リアリズムと川柳の結びつきが戦後に初めて成ったということでは無かったのであり、鶴彬の獄中死(1938)は、大陸での戦争が伝わる渦中でのリアリズムゆえのことであった。

・そして戦後の川柳人たちが一句のリアリティの有無を緩いながらに評価基準に置く姿勢に在ったことは、素朴とはいえ戦中に排除されていたものが陽の下に蘇って自分達の川柳の存在に関わっていることが意識されていたのである。これも言うまでもないが、戦後の窮乏期と言っても遊興性に集う川柳人の数が圧倒的に多かった。、其処から見ればリアリズムは遊興性を縛る感が若干在ったのだが、其処には一種の、社会の傾向への気遣い、つまり反社会や反リアリズムをかざす愚は少なかった。

・だが、余談になるが、戦後の時期の句会の遊興性を旦那芸へ引き込む低劣な動きが地域的に在って、リアイリティを阻害する動きが在ったと聞く。旦那芸愛好者から見ればリアリズムは川柳性を侵すと見えたのだろう。実際、数年後の私川柳の揺籃期に、これを非川柳とする低劣な邪魔が在ったが、其れは通用しない川柳界になって居た。以後、低劣愚鈍な(バレ句や酒肴の具とする等)旦那芸については一片の噂も聞かなくなった。

しかしマスコミなどでも云われた「逆コース」志向が庶民の文芸である川柳に現れやすいことは事実である。川柳性はオピニオンリーダーの具となり易い性状を内在しており、これを一概に負とのみ断じるせっかちもまた拒まねばならない文芸なのだ。

●先に触れたが、主食が当たらない現実が、代用食という単語になって庶民生活の中に通じ合った時―――戦災での焼け野原や疎開の名残の地でつくった芋を食い尽くし、芋の蔓を潰して茹でるなどの労苦と苦心の、いわば骨身に沁み込んだ現実が、最も庶民的な位置に在る川柳という文芸にリアリティの有無を問う視線をもたらせたことは自然な成り行きであった。

・ましてや川柳人は作者で読者。結果的に自己と社会の現実への批判性を底部に置いた作句に、佳作が生まれることが多かった。貧窮と嗜好の綯交ぜに在る中で、個々の抒情性の質がリアリティに重なって川柳になった

 

  妻のもの買ひ鮮明な街を帰る         堀豊次

  ロバの腹 ふくれているは かなしきかな

  さくら咲いてる 子に自転車買ってやれない

  塵芥車牽くに懸命夫婦も犬も

  乾きたる海綿思ひ 眠るとき

 

自己と社会についての川柳での関係は、ときに分離独立、ときに混交。戦後も今も同様だが戦後の川柳では家庭の実際と川柳の作者である自己の意識の双方の現実が並列的に書かれることが多かった。

したがって、リアイリティ指向の作句の実相は、大人の書く綴り方に近しいが、その佳作の多くは川柳的な発語で為っていた。

 

  わが眉の黒く図太く横に引かれ        龜井勝次郎

  血液買うとの立て看板が―わが前

  わが歯の触れし柿の蔕踏まるまじ

 

「立て看板が―」の「が―」のリアリティを読者に預ける書き方が在り、自分が食った「柿の蔕」が、他者に、社会に、「踏まれまじ」という殆どリアリティ依存症の様な川柳も書かれた。リアリティと感情が読者への刺激に加工される川柳的な穿ちに、戦後と川柳の荒っぽい合体が覗えて、尖った抒情を為した作句の過程が思われる。

時節相応の抒情やその刺激が川柳性の働きに拠って書かれたことは、時代相応の作句への体重の掛け具合として次の時勢での抒情の倣いとなった。そして川柳は次の時代、高度経済上昇期の個我の訴求性の無化状況の川柳には、このような戦後期の作句での、作者、自己()の直情の開陳の無為にぶつかることと成るのだが、

●ともあれ社会と自己()との貧しさの混交状態についての庶民層の意識の表出、あるいはスケッチに、リアリズムへの信頼感が伴ったのが戦後の川柳の佳作の大方で在り、其の書き方の大枠で在った。

 

2)戦後の終焉と高度経済成長期の初期

戦後という時節の終焉については個々人の認識に差異が在って、これを承知の上で「もはや戦後ではない」(1956年)の、お役人の吹聴が風船のように社会に流布した。経済的発展を急ぐ政策の布石、キャッチフレーズでもあった流行語である。後ろを見るより先を見よ、という訓示の如き言葉に、庶民の心的なリアリティが含まれていた。

・個々人の実生活にも川柳の現実にも、戦後からの距離感が現れた。暮らし向きに変化が顕れて所帯別に財布の中身の差異が露骨になった。此の差異についての認識と社会観が個々の川柳の傾向の違いに及んで、「革新派」「本格派」という言葉が声高になる中で、戦後を過去とする川柳界の地図が出来たらしい。

らしいというのは、当時に、小集団あるいは個人誌などの活動が其処此処に顕われて、それが地域や独自のネットワークでの交信に留まっていて、そんなの、在ったの?何時おわったの?の状態で在り、此の大方が川柳界を活動の場とせずに為されて、全体像が不明のままに小規模活動の時節が終わった感が在った。川柳界との接触が意識的に避けられたブームであった。

川柳界ではそそっかしく、これを総じて革新活動として、川柳界の外のこととしたのであったので、

地図や分布図の概念に記されることが無くて、後に振り返れば少数の川柳人たちの思い出に為るような活動であった。しかし大局的に云えば明らかに、社会の中での個我の存座感の希薄が、既存の川柳界の外での個人の川柳活動を求めさせたのであった。

労力を費やすが反応のボケぶりや権威主義とのくだらない接触から離れる状況が望まれたのだ。したがって当事者間の交流は短期間で在ったが同志感情なども生じて、顔は知らないが郵送による小集団の紙誌の活動は密度の濃さが在った。

これらの帰趨は当事者とその周辺だけが知るものであり、とりわけ革新派の個人や小集団の活動は其の渦中に在っても捉え難かった。

・「もはや戦後ではない」とする時代は、何でも何処でも夫々がパーツの一個であることを普通のこととする相貌が蔓延する時代であった。この反比例の事象に川柳では個人や小集団活動が在った。

此処から見返れば戦後に書かれた「わが歯の触れし」とか「我が眉の黒く図太く」などの自意識は、

個人の意識が大衆的な様相で書かれていても、僅かであれ作者の個性や趣味性が感得される抒情で在った。しかし高度経済成長を目指す社会での個人の存在感の払拭は、個性的な抒情を為させなかった。表出レベルの他者との同位性が作者に跳ねっ返ってくるだけなのだ。

尤も、個人的な嗜好への駄々子のような感傷への溺れ込みが一部であったが、活動の質は仲良しクラブの無為への転落を見せるだけであった。

●視界は年中真っ昼間の平坦。自己の発語が他者の発語と同等になる作句の現実から見返れば、戦後の窮乏期が明るい空気と真っ直ぐな発語を為させていたことを思い出させたのではなかったか。焦燥が革新派の社会性川柳への傾斜を深めさせた。

戦後の川柳のレベルは低いものでは無かったと想像された。等し並みの窮乏状態では真っ正直に声を出せば、其れが個人の言葉で在ったのだ。「柿の蔕」が其の典型であったかもしれない。

●逆にいえば、社会的に戦後を過去とすることで、川柳は自己の存在確認を他者(川柳人)読者に預ける時代になったのであり、個人誌や小グループが出るべくして出る感が在って、社会状況が此れを出させとも云える。

●何が在ったか。

存在感の薄さを常のこととする個人の内側には、それ故に川柳界の地図、結社の傾向の別や結社誌の投句欄の選の質、鑑賞文などのレベル、結社の核に在る川柳人や、川柳界で著名な川柳人などについての見直し等々の、改めての値踏みがされる状況になった。

値踏みの主要素が、個人の存在感の表出度であった。「個性」が川柳の価値になって、其処此処の川柳誌の散文に「個性」の活字が多く見られた。

逆にいえば社会での自身の在り方を見つめる視線が、そのまま川柳界に当てられたのであり、個々人が自分の川柳活動を見直す時節であることが意識されたのである。

●好作家の結社を頼らぬ浪人化現象が顕われた(後述)

●結果的に云えば、戦後期の川柳とその読みについての価値基準がリアリティの多寡をもって作者の像を求めていたところから、次の時勢では誰もが同様の表出を為して個々人の存在感が極度に後退したので、自身の川柳と自身の拠り所が不安定で浮いている感に衝突、これが川柳界と川柳人と革新派などについての値踏みの到着点であった。

●そして其の大方は、満足することは少なくても、居辛いものでもない暢気さを身近な結社、あるいは全国的な組織を持つ大規模結社と、其の系列の集団に椅子を求めて落ち着いたのであった。大規模結社は作句と読みの同質性を認め合うが故に揺らぎの無さが在り、中小規模結社で、寄せ集め主義(後述)というか、個性を云々するなどのない暢気な結社で、川柳人である自己確認が求められたのであった。

しかし、川柳界で「私の川柳は皆さんと同じでいい」とする姿勢には、戦後の辛苦の素朴な反映が在り、其処に川柳の遊興性への凭れ込みが在った。是をもって「川柳は共感性の文芸」という極めて緩くて曖昧な認識の正論化現象がなされたのであった。

・川柳界の結社の大方は、高度経済成長期の社会の在り方に相応しており、さながら自ら個性の無さに安住する保守性を常態として行ったのである。(これがポストモダンを遅らせた)

●個我の存在感の無化や磨滅が社会的な問題であるとする認識の空回り状態。其の概略を大規模結社は知っていた。川柳での個我や社会への訴求性の空回りをもたらせていたのは、戦後のリアリズムが導いた庶民性、あるいは日常的な情意や共感性などのエネルギーの後退化現象であり、経済的国策であった。個の存在感を求める意識に、我が家庭が喰い続けられて、社会的な椅子が保てれば、まあ、いいか、の感が被さった、いや個々人が被せ合ったのだ。個々人の無表情な自画像が川柳に個性の無さを展開させたのは、当為であったといえる。

 

●この極度に乾燥した内閉性をものともせずに、中規模結社の同人でもあった渡辺和尾がガリ版刷りの個人誌「青い実」をもって、ネットワーク造りなどの優れた能動性を誌面に発揮した。例えば、川柳界で殆ど知られることの無かった山頭火の存在を流布させるなどの活動を為したのである。当時の川柳界に山頭火についての何かを書ける人材が在ったとは思えないが、自己保身化の広がる川柳界で、かつての新興川柳や新興俳句を知る川柳人が居ても、いま、この時節に、俳句の山頭火の為した構文を展観させるか?の、表面的な時代感覚のズレを思うにとどまっていたのだが、初見の、とりわけ若い川柳人には、何よりも山頭火の句の構文と、一個の人間の存在感の感得となった。定型から離れて個我から発する構文が、一個の俳人の存在感の濃さとなって、川柳での作者個人の位置取りについての刺激が在ったのだ。

・いわば川柳界に蔓延している伝統的な評価軸と其の定型への安易な凭れ込み、其処で行われる選句の同質性に、個人誌が、山頭火の存在をもって揺さぶりを掛けたのであった。無論、無視と、あれは俳句のこととする川柳界の姿勢の裏に、山頭火の句と,此れを持ち出した「青い実」の存在への、手の打ちようのなさ、舌打ちが聴こえるような反応が在った。個人的で、旧くて狭い異端を持ち出す「青い実」に交換誌を送る必要はない、との言い状が在ったのだ。

・是は、戦後の時節ならば、身を隠すようにしていた非人情な振る舞いが、その次の社会や日常生活では非人情が普通のことと成ってしまった意識の転換をものがたっていた。個人誌「青い実」に抵抗する川柳界という図式は実にあからさまであった

戦後の極度の窮乏期の中でさえ存在した情意に基づく庶民的な共生感が断ち切られた社会と、其処に和している川柳界とその川柳、という単純で露骨な図式が見えたのだ。

 

●ゴルフブームが始まって、中小企業の営利状態の上位から順に、其処の長がゴルフを始めた。眼に見える社会の差異のバロメータがゴルフで在った。

・格差の実態を身に負いながら、個々人が自己の生を社会の方向性に預けるという構図の到来が、戦後の時節を過去とした。

【川柳の戦後】を振り捨てて現在の社会の現実に即した人情の求め難さ!

世間の在り方に弾かれる個我の呟きと、わが身への苦笑とが川柳に成る時代になったのだ。

 

  旧きもの崩るゝ 断層見てゐたり       小宮山雅登

  貌の無い夕ぐれがあるいて来る

  ネクタイを結べ この人臭きはわれ      中村冨二

  一幕の喜劇に峠 吹雪せり

  半数は敵半数はでくの坊           横山三星子

  木のぼりの劣りしままにいまも貧       大山竹二

  一つ咲いて誰彼の目に冬の薔薇

  母系につながる一本の高い細い桐の木     河野春三

  今も眼底に ブランコの不逞垂る

子がみんな寝てからリンゴ妻が出す      定金冬二

  人が車を轢いたのならば見に行こう

 

・いわば自己像が心的リアリティに拠って書かれており、他者の句と同じ位相に並列する川柳の現実を如何に受け止めるか――への思考に及ばずに終わるのがこの時期の川柳であった。春三の自画像の喩化が、川柳の書き辛さを越えようとして、その構文の身もだえが、均し並みに並ぶ此の時期の川柳人の苦心を象徴している。

人並みの個性?が、川柳誌に並ぶことへの抗いが在っても、苦笑で終わることが作者たちに在ったのだ。「人が車を轢いたのなら」との言い状が現実を覆す能動性から最も遠い非力の自認であると感じるとき、川柳が単純な苦笑の増幅器になる。

川柳がモロに現実の鋳型になって、其処で止まっているのだ。

川柳という位相からの発語が等分量のリアリティに拠って句となって居ると感じるとき、戦後以来のリアリズムの限界の如き意識が沸いたのではないか。キザに言えば、ああ川柳のリアリズムが疲れていると実感されたかも―――?

・此れらの表出を当時の川柳のてっぺんであったというのではないが、川柳界の大方の遊興性の視線には竹二や冬二の句に親しみの感が在っても、他の句には一瞥だけで不問とする煩わしさに似た読後感が在っただろう。生活の現実に在る煩わしさを川柳で増幅して、どうする気?と。

作者にすれば大方の理解や苦笑に折れ合うはずもなく、その必要も感じられなかっただろうが、その中の冨二には、句会や大会の席で共に愉しみあう大衆的な実作が在り、「一幕の喜劇に峠 吹雪せり」の映画や演劇に在る情意の常套的な背景には、現在只今の社会の非情、個人の疎外感の堆積状態が在る。

冨二の、殆ど、芸とも遊戯とも感じさせる様々な構文は、この時期の多くの川柳人に内在していた個我の存在感の希薄化や疎外感、是を如何様に書いても個性からの物とならない窮状を楽々と躱す感が在った。いわばフィクション化すればいいじゃないですか、と云わんばかりの「峠 吹雪せり」であった。

・春三は句会を社交の場と自己規定していた(本人談)ので、殆ど句会嫌いの川柳人であるかの感が在ったが、冨二は句会が好きであった。

●後に見ればこれらの川柳に書かれた個人の存在感の希薄化についての認識に、然程の違いが在ったとは感じられない。しかし川柳の実作の際に此れを捉える位置が「リンゴ妻が出す」から「一幕の喜劇」とする違いが在り、春三が、社会の現実を自身が胚胎する様を見つめており、川柳に在るリアリズムを継いで表象化していることで目立つ。

・そして冨二の川柳が、戦後の川柳に在ったリアリズム偏重を表象の芸に転換して、大衆性に仕立てるフィクション化、其処に川柳人を若干、安心させるような遊び心があった。

なぜなら「ネクタイを結べ この人臭きはわれ」と「一幕の喜劇に峠 吹雪せり」の二句は表裏一体、共に鉛筆を持つ冨二には、いわば一つの紙芝居の中の二枚の絵なのだ。そして此れを書かせたのが社会人の心的現実と川柳性との混交状態(作句、その芸)であった。

「一幕の喜劇に峠 吹雪せり」として、常在的な人間どうしの関係性の酷さ冷酷さに在る悲劇性を「喜劇」と逆表象とするときに、「吹雪せり」の酷薄は映画や演劇の一シンの常套性に仕上げられる。

常套的な自嘲に、川柳人冨二の「この人臭きはわれ」が在る。此の一句をならせたのが「は」の一語であった。

戦後の時節のリアリズムに捉われても離反を画しても、大衆的な作句の位相に立てば、フィクションやイメージは、主意と川柳性の混交状態を弾き出してくれる。其れが川柳の単純な作句、などと冨二は自分に向って呟いたかもしれない。

。尤も、冨二フアンには、冨二が例に拠って大衆的な様相を書く芸を披露しているとの視線が在って、其処から読めば冨二の川柳の在り方、作句の折りの意識の柔軟性が、書き上げられた川柳より以上に、川柳の愉快を博すこととなった。川柳を行為であると規定すれば冨二にハーモニカ好きがあり、草野球の無償性への共感性が在ったのだ。

尤も「ネクタイを結べ この人臭きはわれ」の戯画から見れば「吹雪せり」はモロに演劇性に擬して大衆的で在り過ぎる。止むにやまれない歪み合いの現実に、「吹雪」の冷酷を貼り付けると、其の反作用が温もりになる―――芸なのだ。

・春三が自己の内在性を先祖から継がれた「桐の木」とした作句に並べれば、冨二は、個我と社会の関係性を戯画化して、其のキリキリマイの内在性を書いている。

●経済上昇に伴う一般大衆の心的な実質を川柳をもって捉えて、戦後の川柳のリアリズムの行き詰まりの打開を得ようとする感が二人に在った。

・他の9句との幾分かの違いが、リアリズムの次への関心への強さであったと思われる。

勿論、当該の11句を並べると

①真っ正直なリアリズムと、

②川柳的な遊興性と

③両者を行き来する、

三様のタイプが見える。

●これらの作句には、川柳一句に自己の内在性を如何様に展開できるかについての、戦後の時節以来の実感《我が川柳の実現》の意識が内包されていた。

●そして《我が川柳の実現》への歩行の危うさが―――個々人の個別性を社会が踏み潰して経済戦士化を蔓延させている現実に在ると認識されていた。まったく度し難い現実!が、川柳の前進を阻んでいるかの感情がこれらの川柳人に在ったのだ。

度し難さを短絡的に川柳化すると社会状況と同じように非個性の川柳となる。あるいは個別に内在するはずの意識の表象が一般的な位相に並列化する。

此の、作句状況への抗いが、川柳の先進性に繋がるとする認識から見れば、11句の作者たちの、対川柳への位置取りの個別性が見えた。皆、頑張っていたのだ。

●少なくとも春三と冨二には、川柳が越えるであろうリアリズムという概念が在っただろう。

単純化して言えば

例えば「弱い子に弱いといってうつむかれ 冬二」などの単純簡明なリアリズムが過去にも現在にも厳として、書かれた情理として在り、この大衆性は、世上の高度経済成長への動きに呑み込まれつつ誰一人として否定しない。つまり一句の存在感が頑迷なほどに在って、作者の個別性の問われない川柳であった。

穿っていえば、このようなリアリズムを越える作句を望む位置に春三と冨二の意識が在り、其処では「薔薇」も「リンゴ」も、あまりに非個性故のリアリティに留まっていたのである。

逆に「ブランコ」に「不逞」の意識を位置させる作句には、社会の消費物となるのを拒む作者の像が貼り付いていた。

●粛々と是に専心した春三(例えば「一本の高い細い桐の木」の句)と、自己疎外を強いる社会の方向性を在来的な芸に委ねて、川柳的な愉快として読者(川柳人)に供する冨二の作句があった。そして社会人としての個が負わされる桎梏の自虐的な戯画「ネクタイを」に、冨二なりの表出が為された。

春三と冨二は、川柳性とリアリズムとの関係性に社会的なストッパーが在るのを自分のこととして、これが一筋縄では捉えられないと感知していたのだろう。

●如何様の思考が在ったかを解明することは出来ないが、引用の11句は、其々の主意についての認識が常時的な世界認識として個々の作者に抽象された位相での作句で在った。

・このような主意の表象化は、例えばか題詠の、題の位置に主意を置いて一句とする書き方によく馴染む。そして抽象体の主意を具体化せずに書く方途を川柳性に委ねるとき、其処でリアリティに拘らねば、川柳人は勇躍、仮構に遊べる!

●春三の孤高であれ、冨二の大衆性であれ、リアリズムへの拠り掛かりからの方向転換が成されたことで、当時の川柳の表象では際立ったことだろう。

読者(川柳人)の眼に、冨二の云う「趣味」性の違いが春三の孤立化を為し、冨二の大衆化を抽出させていると見えた。

●他の引用9句にも、抽象化した世界観の出し入れを為す個々の作者の技量が感じられる。是は、イメージ化とフィクション化が、戦後以来のリアリズムからの急激的な隘路を為したことを物語っていた。

ところが春三と冨二に隘路の認識は無かっただろう。

むしろ二人には、高度経済成長を負()って後戻りの無い社会の相が、川柳に端境期を押し付けているとの感があったのではないか。

冨二の居た位相からすれば、川柳の大衆性からの安直な浮上は、川柳性の軽視になりそうで、春三は川柳性を保ちつつ現代詩の中の最短の詩に川柳を擬す方向性の端緒を感じていただろう。

●春三には端境期の自分の構文が「桐の木」の句で為ったとの認識が在っただろうが、この構文は自身に対しても汎用性の少ないストイシズムで為ったことが自覚されていたことだろう。

一方、冨二は、自分に在る芸の領分の中でフィクション化が自覚されたことで、大衆的な位相の川柳を書いたとする意識が在って、いわば川柳性に乗る書き方のバラエティーの内のこととする気分に留まっただろう。もとより書き方の新規を目指す気は無かったのだ。

 

●後年から見れば、川柳でのリアリズムの後退現象は以上のように、社会状況の変化に相応しての、いわば単純なことであったのだが、其処には、現実から尻を叩かれて前へ這い出す川柳という文芸のサガがあり、その淵源が前句附けという「出題」を持って一句を得ようとする受け身の作句に在ったと思われる。

・この意味で冨二は、いわば川柳の子であり、春三は前句を断ち切った近代川柳の子であった。

・そして戦後の次の時節が、川柳の幅の拡張期のステージと成って、冨二が選者の一人として招請された平安川柳社の大会での討論会が「川柳の幅と作家の姿勢」をテーマとしていたのであった。大会の選者の数人に「川柳平安」誌の前号批評の執筆が依頼されたのである)

●川柳の幅の増幅感は社会から戦後の様相が減って次の時代が広まる中での当為で在った。自己を近代人として捉えて、その個我の心情の開陳が外圧と共に書かれるとき、書くべき一句の主意の分厚さによる暗喩が浮上した。

暗喩はそれまでの川柳にも在ったが、自己の存在のあやふや感の時勢で、一句への表出量が極端に多くなっての浮上であった。暗喩、フィクション、イメージなどに拠る一句の分厚さや意味性の多層性の集約の技法、其の獲得が川柳界でも革新派でも必置の、端境期となったのだ。

極端に言えば二重構造の表出が流行ることとなったのである。

この現象が戦後の時期のリアリズムの、いわば写実性を物語っていたが(此処では触れない)

●此処で、表面的に川柳界と革新派の其々の位置が明確になるのだが、実際は遊興性を好む大多数と、社会性川柳の少数派の位相が明らかになっただけであった。

むしろ川柳は此処に至って、身を攀じるようにして書くべき一句のリアリティから抜けて、表象の多岐化に新規を求める川柳人と、遊興性の軽さを利してフィクションとイメージに易々と向かう川柳人の自己確認の時代になったのであった。

・表象が日常性から距離を取る川柳が増えた。心的なリアリズムの嵩と詩性への超出の魅力などから暗喩を愛好する川柳人も増えて、いわば表象の嵩の大小を行き来できる好作家が増えて、先に触れた結社の存在から距離を取る浪人の位置を好む人数が増えていったのである。(ちなみに、この辺りの状況の主因を捉えずに「川柳の幅」についての平安川柳社の討論会が終ったのであった。同人のなかのチンピラであったところからは、あの討論は何だったのだろうと首を傾げる旬日があった)折からの小集団誌の流行に和す「川柳ノート」の発足にもなったのだ。

 

●個人の存在感の軽さが社会と日常生活を律する時勢の川柳が、大規模結社のいう本格川柳ではままならずに、中小規模結社や個人誌が、いわば大規模結社の存在や川柳界を棚上げしての活動になるのは自然なことであった。(大規模結社と中小規模結社との関係性が開き始めたのだ)

この、大規模結社での表層的な穿ちへの凭れ込み現象を気にせぬ位相で、極端に言えば時勢と自我を一句とする表象化比べの状況が露わになるが、逆に、書くべき主意の内在性に然程の視線を向けずに即席的な暗喩が書かれ、軽すぎるほど軽いフィクションやイメージが読者を引き付ける有り様が始まった。作句への体重の掛け方の違いが、川柳界と革新派に顕れたのである。

暗喩が書かれた一句の中の主意に捉え割れずに(実は読めなくて)、辺々隻語の句語への愛着感を嗜好対象とする子供っぽい現象も耳にしたが、孤立、居なくなったが、存外其処に、作者像が籠っていたかも―――。あるいは革新派の表象が社会性に傾く癖を見せるなどが在って、是に川柳界では鼻白む感も在ったのだが―――川柳界で「川柳が難しくなった」「急に幅が広くなった」「面白くない川柳が増えた」などの反応が出るべくして出たのである。変化期の混乱と云えばそれまでだが、平たく言えば、「読めない」自己への焦燥混じりの憤懣が、川柳の幅の拡張期の証にように顕われるところに庶民の文芸、川柳が露わであったかみしれない。

 

 

)時勢と書き方の関係

〇先の冨二の「ネクタイを結べ この人臭きはわれ」の「は」の見事さ!

此の句、鏡の前のサラリーマンの像と、その内奥が書かれていると読める。そしてこの句のリアリティを心象風景化すると大衆的な「一幕の喜劇に峠 吹雪せり」となる。

二句を一対にしてしまって冨二には申し訳ないが、この表裏一体の感は、川柳人冨二の幅の広さを示す一端を浮上させると共に、冨二の川柳の大衆性の幅と奥行きを改めて思い知らされるとともに、二句が、冨二にとっては何時も通りの作句であったのだ。

そして此処から勘案すれば、川柳人が戦後の時節にリアリズムに拠り、戦後の次の時勢で、リアリズムへの依存を続けることが社会的変転への遅滞を生じさせる現実が(一部で)認識されて)――其のなかで冨二が、暢気に、自作の発語のレベル差に頓着せずに書いていることに誰も立ち止まらなかったのである。

つまり個々の人間の違いが薄れてニヒリズムへの傾斜を思わせるような疎外感が在り、其処で冨二が楽々と、これまでの川柳に在った大衆的な位相の態様を持って、句会での共感性レベルでフィクションの扉を開けて、現実仕様に資して見せた。

一方、春三に近い革新派の面々は作句数が減って、しかし冨二の、いわば大衆芸能的な方途へは行かなかった。多才と言ってしまえばそれまでの冨二の「趣味」の幅の広さと、他者には測りがたい意識、認識の深浅は、大方の川柳人がリアリズムからの超出に苦心する中で、句会吟のようにさらさらと、フィクションの方途が楽ですよと云わんばかりに扉を開けた感があった。

〇この、肩に力が入っていない「趣味」による僅かな方途の(イメージ、フィクション)の提示が、後の私川柳の出現と多彩な書き方の地ならしになり、やがて「川柳ジャーナル」誌上で、冨二は私川柳流行の応援団長のようなふるまいを遣って退けることになる。まるで川柳が、文学的な深みに向うことが無いのを知覚しているかの感が在った。

●冨二の川柳には句の主意より川柳性の興趣が膨張する作句が在った。

・いわば川柳好きの同好の士を愉ませる場合が在って、句会の席に着くや「座ってさらさら」での佳句量産という冨二神話が知られていたが、このような作句には往々にして川柳性の起動が作句の手応えとなり、あるいは、川柳性に拠る主意の表現が成れば一句の作句が終る、そのスピードが独特の飛躍、省略、などの構文をつくらせ、――手応えとなって居たと思われる。

冨二フアンの中には川柳的な興趣の手応えや、構文の軽々とした変化や発想を、一句の主意より上位にして愛でることが在ったのだ。

 

  真っ暗な壁がポロリと――死んでゆく   中村冨二

  夢――壁には唯物の穴ボコボコあき

  透明な鬼、看護婦をめぐりて消えず

  たちあがると、鬼である  

良心も頭が禿げてる  

  稼げば死ぬぞ 乾きたる掌の空より垂れる

  春の太鼓乱打したしと妻には言えぬ

  椅子がこわれ、何でもこわれゆくぞ、妻よ

 

「と」で転換を図り、「ぞ」の口語体でリアリティと為すなどは、主意の叙述より川柳性の弾みを愉しんでいる作者を露呈している。

おそらく音楽の一部や、蝶の飛翔のような短時間の作句が、これで終わっちゃったよ、などの感で在ったのだろう。だからと云うべきか?は(当方(柊馬)のドグマになるが)冨二には題を付した数句での群作の発表形態が多かった。

ああ、だらだらと出てきたので一句に読点を2個!附けちゃった、などと、とぼけた感が在る作句で、本人には川柳としての韻律はこの辺まで広げてもいいだろう、などと、川柳であるとする感覚に乗って居て、いわば其の悪戯っ気が読者(川柳人)には愉しいのだ。

此の愉みは実に大衆的であった。川柳の作句に拠る、自由、の享受が、読者(川柳人)を包む感があった。温もりが在り、無欲であった。同好の川柳人に読まれれば、それで充分、作者にも読者にも、一句が一会の邂逅と成ればそれで充分――実際、冨二は、自ら望んで句集を出すことは無かったらしい。アンソロジーはお付き合いで、句集は奨められる経緯が在っての刊行であったと伝えられていた。

〇先進性と云うより戦後の時勢に在った近代的な個我と社会状況との桎梏。その多くは「近代」についての相対化の無さ、暢気さの共有性に在ったが、冨二は此れを、在るがままとして心得ながら、自身を大衆的な位相の中では一段低い、低姿勢(大衆的な芸人、あるいは街角のアクロバットや一人芝居を見せる様な)腰の低さをもって、自己のポジションとしていた。

無欲であったのだ。川柳での先進性を求めるについても無欲で、前句附けのように後から附いてゆく位置取りを自ら守っていた。

〇「ボクは元来読者であって、批評の後から付いてゆく公算が多く(中略)ボクには趣味があるだけであった(後略)。「地獄好き」1965年「鷹」23)ほんの少し、大衆を喜ばせる位置取りに自己と其の川柳を位置させる。謙虚というより保身、注意していても趣味に在ることの安穏を破る無粋な事象の起きやすいのが川柳の在る環境で、自己に溺れた無粋なチンピラが、あるいは全没を恨む泥酔者、更に結社の内外での党利党略への溺れ、過信、地位への嫉妬、妄執など―――があり得る。

ともあれ、21世紀の近頃の地位願望亡者共に読ませたい名言が「元来読者」であり、冨二は、「批評の後から付いてゆく」「趣味があるだけ」のポジションに自らを位置させていたのであった。

其処から、従来の短詩型文芸に在る伝統的な形式主義を破って見せる悪戯っ気が度々出るのが冨二の個性で、いわばジャズのアドリブのような趣が作句の超特急性に在ったのだ。

〇川柳界の形式主義には俗物的な権威主義が伴っていた。これに対するいわば川柳人としての振る舞いの意識が、破調や口語体や「、」「―――」に在って、表出の先進性などではなく、戦後のリアリズムの風潮をさらに俗化して見せてい感が在った。もちろん此れも冨二の安直な大衆性からのものであり、遠望に遠い日の『第二芸術論』への客気のような交々が在ったかもしれない。肩怒らせて云々される論議より、冨二は形式への信頼と共に大衆が川柳と認める形式の限界、つまり超出してなお川柳の形式がこのように在ると感得できる識域への関心が子供っぽく在ったのだ。

「批評の後から付いてゆく」と、自分の位置取りを公言していたのであり、子供っぽい関心からの型式への破壊衝動の面白みと、何処までやれば叱られるか、首を窄めねばならないか?の境界への手放し状態での関心があったのだ。自身の表現領域についての鬱勃感といえるが、実に明朗な態度であったことが覗われる。近くに本格派や定型遵守の川柳人や結社が在れば、このようなオッサンの存在は実に目障りであっただろう。これを黙認させるパワーが戦後の庶民的なリアリズムの風潮に在り、冨二の川柳らしさにも在ったのだ。

●尤も、戦後の一時期には社会的に綴り方や絵日記の、子供の視線とその発語が流布していたのだが、冨二の川柳の破調には活脈感があって、悟空の如意棒のような自在性の愉快が読者(川柳人)に受け入れられていたのだと思われる。

●春三や革新派の川柳人の多くは、冨二の闊達な活動を評さずにただ眺めていただけで、型式についての考察なども革新派で無かった。つまり「評の後から附いてゆく」評らしい評が無かったので、川柳の構文についての思考なども皆無の状態に終わり、冨二の、いわば本気、いわば悪戯振りに終始したのだが(本人は其れで充分であっただろう)、後から思えば、冨二の構文の愉快と時代状況の関係性の交々は、川柳の構文と先進性の関わり具合を具体的に見せていたのであった。

尤も、革新派には戦前の新興川柳や口語川柳を曳く川柳人が在り、冨二の在世中にもその流れが在って、その一人、所ゆきらと遭遇した冨二が、実父の相に似ていることに驚いたと聞くが、おそらく冨二の意識には、構文に関する先進性は、まず定型をもって書かれる―――その作句法にこそ先進的な構文へのヒントが在る―――あるいは定型の存在が大いに認識される中で其れが中心になる位相からの先進的な構文が書かれると認識していたのではないか―――。

ジャズのアドリブがテーマから発して為された時代と、是を破って尚、ジャズの自由を求める時代への世界の推移が伴ったことを思えは、冨二の構文(アドリブ)が其の時節のことであったと認識される。

しかし、破調であれフィクションであれ冨二には「趣味があるだけ」であった。其処に大衆性に通じる表象についての骨太の技(わざ)があった。

 

 

(次回は、川柳界の中規模結社と、其処で顕れた「第三雑詠」の短期間の特殊な活動を認めていた冨二などに触れます)

 

転回

千野帽子「俳句いきなり入門」の中に作句の四段階というのがあった。

第一段階 自己表現期、第二段階 自動筆記期、第三段階 前衛俳句期、

第四段階 伝統俳句期 である。

各「期」の名づけが妥当かどうかは分からないが、私が面白いと思ったのは

第一段階を抜け出すには「言語論的転回」を経る必要があるという点である。

第一段階 自己表現期の特徴は何か。

「こういう内容を言いあらわそう」と考えて、それを表現するために言葉を捜す

段階。意味がわかりすぎて、読み手としては「で?」って言うしかない俳句が

できる。――この段階を抜け出すためには「言語論的転回」を経る必要がある。

自分の着想のために言葉を捜すのをやめて、「×××という言葉を使おう」

と考え、それに合わせるためにべつの言葉を捜すようになる。そうなると

第二段階に突入ということになる。

俳句を作っている人の多くはこの壁の存在にすら気づかず、気づかないから

この壁をこえられず、第一段階にとどまっている。   等々。

(第三、第四段階は省略)

 

川柳の兼題から、みんなが使う言葉で「お話」を作り5・7・5に纏めても

読み手にあれこれ想像させて参加を促す句にはなりにくい。

どこかで聞いた「言葉と言葉の関係性」という言葉を思いだして

立ち止まった次第。

      小さく吸って大きく止めるレントゲン   ひでお

      あらとまあ口やわらかいまるとなり     〃

 

 

    

 

 

 

 

 

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